第六百六十三夜
通勤電車で事務所の最寄り駅のロータリにあるバス停へ並ぶと、同僚の一人がその列に並んでいた。
おはようと声を掛けると、彼女は何やら難しい顔をして暫く黙った後、
「先輩は、卵酒って飲んだことありますか?」
と藪から棒に尋ねる。懐かしい響きだ。溶き卵に砂糖を加え、アルコールを飛ばしたぬるい日本酒と混ぜたものを子供の頃、祖母に作ってもらった記憶がある。正月休みに里帰りをし、初詣に出掛けた後風邪を引いたのだったか。精がつくからと飲まされたが、妙な味と卵の生臭さで余り美味いものではなかったように記憶している。今思えばあの味はアルコールのものだったか。
そこまで話すとバスが到着し、それに乗り込み、二人掛けの席が空いているので並んで座る。
「私、昨日初めて飲みましたけど、結構悪くない味でした。今度作って差し上げましょうか?」
と笑う彼女に、こんな暖かい季節に飲むものなのかと尋ねると、
「それが、社長に作って飲むように言われたんです。作り方なんて知らないって言ったら、そんなものインターネットで簡単に調べられるからって」
という。一体どういう状況だったのか皆目見当が付かずに説明を求めると、
「実は昨日、ちょっと晩くまで居残って仕事をしていたんですけれど……」
と、また難しい顔をする。
昨夜はどういうわけか落ち着かず、仕事が捗らぬままずるずると残業を続け、気が付けば事務所に独りきり、午後十時を回ってしまった。最終電車までは間があるとはいえ、余り睡眠時間を削りたくはない。そろそろ切り上げようかと思ったところで事務所の電話が鳴った。こんな時間にと思いつつ、緊急の連絡かもしれぬと受話器を取ると、何やら断続的に呻き声が聞こえる。悪戯電話かと受話器を置くと、今度は事務所の窓硝子がドンドンドンと音を立てる。まるで誰かが叩いているかのようで恐ろしくなり、スマート・フォンで社長に連絡をすると、こんな時間まで残業をしてはいけないと叱られた後、
「神棚のところに卵とお神酒がお供えしてあるから、手を合わせてそれを取って、給湯室のコンロで卵酒を作って飲みなさい。そうしたら直ぐに大人しくなるから」
と言われたのだという。
そういえば新人の頃、ここは夜になると変なものが出るから九時を回って残業をしてはいけないと言われた覚えがある。残業をさせないための冗談だと思っていたのだが、
「私も、本当だとは思いませんでした。それで静かになったんで、慌てて帰りましたけど、もう二度と残業はしません」
と彼女は力無く笑った。
そんな夢を見た
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