第六百五十五夜

 

アパートの玄関前で花粉を払って扉の内に入り、洗濯物をビニル袋にまとめて風呂に入ると、髪や肌に付いた花粉の影響なのだろう、あちらこちらが痒くなり、くしゃみが止まらなくなる。鼻うがいも含めて念入りに身を清めて風呂を出て着替え、コーヒーを淹れて一息吐くと漸くくしゃみが治まる。もう二十年来、この季節は外出する度にこうで嫌になる。

風呂を上がって晩酌の準備をしていると呼び鈴が鳴らされた。この時間にアポ無しで訪ねてくる友人に心当たりは無し、通販の宅配を頼んだ覚えもない。返事をして出てみると、隣に住む大家さんが肉ジャガを持って立っていて、ありがたく頂戴する。

早くに旦那さんを亡くされたというご婦人で、他にも幾つかのアパートやら駐車場やらを持っているそうなのだが、何やら事情があってこのアパートの一室に住んでいるのだと、半月前に引っ越してきて挨拶をした際に聞かされた。

そのまま玄関先で簡単に世間話をして別れ際、以前から気になっていた事を思い出し、
「そう言えば、夜中に壁をカリカリと引っ掻くような音が聞こえることがあるんですが……」
と切り出す。

彼女は色々と土地を持っているだけに野良猫には散々悩まされてきたのだが、野良を減らすために去勢手術だの譲渡会だのとやっているうちに、もともと顔が広いのもあってそう言う団体の代表をやることになったのだそうだ。自身でも、部屋で一頭飼っているのだとスマート・フォンで写真を見せてくれたのだが、その猫が壁でも引っ掻いているのではないか。

そう尋ねると、
「あら、そちらのお部屋でも聞こえます?申し訳ありません」
と頭を下げる。しかし、猫はちゃんと爪研ぎ用のダンボールでしか爪を研がないので、その音ではないという。では何の音かと問うと、
「私の部屋はね、十年くらい前かしら、洗剤で毒ガスを発生させるの流行ったでしょう?あれで自殺した女の子がいてね、苦しくて壁を引っ掻いたんでしょうね……」、
綺麗にして人に貸したが、定まって金曜の深夜になると壁をガリガリと掻くような音がすると言って皆逃げ出すようになった。お祓いをしても特に効果はなく、勿体無いからと自分の家を息子夫婦に譲り、アパートに暮らす様になったという。

そんな部屋で気味が悪くはないのかと尋ねると、音がするばかりで実害があるわけでもないからと、彼女は楽しげに笑うのだった。

そんな夢を見た。