第六百五十二夜

 

山桜の名所にほど近い温泉宿を独り訪れた。仲居の勧めるままに頼んだ地酒で気分の良くなったところで部屋を出て時限の迫った大浴場に入ると、日中桜見物に歩き回った疲れが身体の中でどろどろに溶けたようで、全身が心地の好い疲労感で鈍く重く感じられる。きっとこのまま眠ればすっきりといい気分で目が覚めるのだろう。

直ぐにでも布団に入りたいがために身体を拭くのも億劫ながら、どうにか浴衣の帯を締めて脱衣所を抜ける。脱衣所は旅館の一階、建物の西の端にあり、中央の玄関脇の階段へ向かう途中に土産物屋や、卓球台などの置かれたゲーム・コーナー、その先に南向きの玄関と向き合うフロントがある。その先、建物の東側は宴会場らしく、こちらまで酒宴の声が届いてくる。

ゲーム・コーナーに置かれたモグラ叩きが懐かしく、無人の一角にふらりと立ち寄って、辺りをきょろきょろ眺めながらぶらつく。エア・ホッケーの台の角を曲がったところで足下の黒い塊に驚き、思わず声が出る。

声に驚いたらしい黒い塊も肩を跳ね上げて顔をこちらに向ける。赤く泣き腫らした目で私を見上げ、
「すみません」
と掠れた鼻声で謝罪し、直ぐに元通り、抱えた膝に顔を埋めて黒い塊に戻る。

泣いている女性ほど恐ろしいものはないとは言え、そのままほったらかしというのも忍びない。隣の売店で商品を並べていた従業員に報告してその場を退散する。

そのまま階段を上って自室に戻ると、どうも酔いが醒めてしまった。涙には興奮を抑制するホルモンが含まれているとか、以前どこかで耳にしたことがある。映画を半分ほど眺めながら半時間ほど過ごしたろうか、このまま寝るのも癪だと内線で酒とツマミを頼むと、ややあって仲居がやってくる。晩くに申し訳ないと頭を下げるととんでもないと恐縮した後、猪口に酒を注ぎながら、
「あ、あの娘さんを教えて下さったのは、お客さんでしたか?」
と言う。

先程蹲っていた女のことだろうかと問い返すと、
「ええ、どうにもよくわからないんですけれど……」
と彼女はおっとりした口調で首を捻りながら話し始める。

女は宴会場の客の一人で、用を足しに部屋を出ようとして、何かに浴衣の裾を引っ張られてつんのめった。それなりに酒が入っていたから特に気にせずそのまま便所へ向かい、浴衣を捲くろうとして気が付いた。左の脛の辺りから、浴衣が十センチメートルほども裂け、ほつれた糸に赤錆びた釘の頭が引っ掛かってぶらぶらと揺れていたのだという。
大きな怪我こそなかったものの、そんな危険なものを放置していたとなれば一大事、偉い人が出てきて謝罪するとともに辺りを確認した。確かに彼女の浴衣は裂けていてそこに赤錆らしきものの跡も見られるのだが、彼女が女子トイレに投げ捨ててきたという錆びた釘も、宴会場の出入り口にあっただろうはずの釘の刺さっていた跡も、結局見つからなかった。
「かと言って、あの娘さんがそんな嘘をついて何の特になるわけでも有りませんし……」、
と、仲居は眉を八の字にして苦笑いをするのだった。

そんな夢を見た。