第六百二十一夜

 

「前任の方、亡くなったんですって?」。
今日初めて派遣された清掃先で、先方の警備責任者という人間が、建物の見取り図と注意事項を書いた書類、入構証と鍵束を手渡しながらそう言った。

「はあ、そうなんですか。詳しくは聞かされていないもので」
とありのままを答えて一礼し、書類に目を通しながら作業内容を確認しつつ駐車場の車へ清掃用具を取りに戻り、フロアの地図を眺めながら台車に清掃用具を見繕って積み込む。
今朝起きるなり電話があり、前任者が出られないからとだけ説明されて急遽この仕事を頼まれたのだが、死んだとまでは聞かされていない。従業員が十人ちょっとの小さな清掃会社で皆それなりに仲が良かったから、一体誰がと思うととてもではないが落ち着かない。

それでも仕事は仕事、指示書の通りに清掃を進め、二時間ほどが過ぎて仕事の仕上げ、廊下の突き当りの便所の掃除を終えたときにふと違和感を覚えた。

廊下の左側には手前から順に女子便所、バリアフリー・トイレ、男子便所が並んでいる。その正面、つまり廊下の右側には扉が一枚あるのみで、一面唯の壁になっている。こういう作りなら消火栓や配電盤等があるのが普通、とまでいうと言い過ぎかもしれないが、便所の並ぶ正面に部屋の扉というのは珍しいし、共用部にも関わらずその扉に何の案内板も付いていないのは不自然だ。何より、先に手渡された地図にはその扉が描かれてすらいない。

どうにも気になって腰に付けた鍵束を確認してみると、あった。一本だけ、名札の付いていない鍵が。

それがこの部屋の鍵なのか、扉の向こうに何があるのか。それらを確かめたい欲求に駆られるが、指示されていない部屋に立ち入ることはもちろん御法度で、後ろ髪を引かれる思いで台車を押して駐車場の車に戻り、守衛室へ仕事の完了を報告しに戻る。

すると先程の責任者が出迎え、書類に判子を捺しながら、
「やっぱり、前の方は亡くなったんですってね。いや、好い方だったのに残念です」
と、上目遣いでこちらの顔色を伺った。

そんな夢を見た。

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