第五百九十六夜

 

昼休み、近所の公園で空にした弁当箱と水筒とを入れた手提げ鞄を片手に事務所へ戻ると、南側の港を向いた窓の辺りで同僚達が何やらワイワイと騒いでいた。

自分のデスクに荷物を置いて歩み寄り、何か珍しい船でも見えるのかと尋ねると、
「窓に手形の汚れが付いている」
と皆が口を揃える。そんなことで大の大人が寄って集っていたものか。数日前に職場見学でやってきた子供達のものだろう、清掃員に頼んでおけばよいだろうと言うと、
「それがこの手形、内側から拭いても消えないんです」
と返ってくる。

ポケットからハンドタオルを取り出して、皆の指差す手形へ顔を近付けてみる。なるほど、拭いてみるまでもない。明らかに厚い窓ガラスの向こう側に手の脂で付いたような白っぽい痕跡があり、よく見ればガラスの手前側に微かに影を落としている。確かに不思議に違いない。

何しろここは三十階建てのオフィス・ビルの十階で、避難用に開く唯一の窓からは二十メートルほど離れている。とても悪戯で手の届くものではない。外面の定期清掃の際になら可能かもしれないが、清掃員がそんな馬鹿げたことをするとは思えない。その定期清掃だって季節に一回程度のもので、数ヶ月前に付いたその手形に今日になって初めて気が付く者が現れたというのでは不自然だ。

皆でそういうことを色々と話し合っていたらしく、代わる代わる説明してくれる。確かに怪談めいた話だが、その窓の手形もさほど目立つものではない。気付くには何かのきっかけでもあったのだろうか。

尋ねる私に一人が名乗り出る。昨晩一人で残業をしているとふと視線を感じて振り向くと、髪の長い女がちょうどその窓に張り付いているのと目が合った。驚いて椅子から転げ落ち、視線を戻すと既に女の姿は無い。疲れか寝呆けてかで、心霊モノの映像作品で見たような幻覚でも見たのだろうと思った彼女はそのまま仕事を続け、切りの良いところで退社した。今朝になってその話を聞いた同僚が冗談半分にどの窓かと尋ねて確認してみたところ、その手形を見付けたのだという。

いくらなんでもそんなコテコテの怪談みたいな話があるものかとは思うものの、当の手形が残っている以上はそういうこともあるのかもしれないと首を捻りながら昼休み終了のチャイムを聞いた。

そんな夢を見た。