第五百八十六夜

 

上司に連れられて行った取引先との打ち合わせが実に中途半端な時刻に終わり、社に戻らずに直帰することになった。

下り線の途中で上司と別れて電車を乗り換え、最寄り駅に着いて電車を降りると熱風が吹き付ける。陽もまだ高く、夕食の買い物をして帰るにしても早すぎて、帰宅してから時間を持て余しそうだ。そんなことを考えながら改札を出ると、ふと駅の高架下に入っている喫茶チェーンの店へでも行ってみようかと思い立つ。値段の割に食べ物の量が多くて有名で、いつか体験してみようと想いながらこれまで入ったことがなかったのだ。

駅の階段を降りると、高架下を潜る道路の前に人集りが出来ており、パトカーやら白バイやらが停まっている。何か事故でもあったのだろう。人混みを避けながらどうにか横断して目的の店に入ると客の姿が見えない。中途半端な時刻のためか、それとも事故の見物に客が出ていったのか、何れにせよ接客の応対が忙しくないのはこちらにとっては好都合、案内された席で出された水を片手にメニュを眺め、軽い夕食を済ませてしまうことに決めてカツサンドを注文する。

スマート・フォンでニュースを眺めているうちに運ばれてきた珈琲を啜りながら、改めて店内を見回す。暖色系の内装と照明にサンスベリアやらポトスやらの観葉植物がアクセントになって、シンプルながら落ち着いた雰囲気で居心地は悪くない。

さらに店のチェックをしようというわけではないが、食事の運ばれてくる前に便所へ行って手を洗おうと席を立つと、ガラス戸で仕切られた喫煙席に初めて他の客の姿が見えた。磨りガラスにぼかされてはっきりとは見えないが、明るい色の髪を長く伸ばした女性らしい。磨りの入っていない足元の鮮やかに紅いハイヒールが印象に残る。

フロアと同様に明るく清潔な便所で用を足し、置かれた消毒液を手に入念に擦り込んでフロアに戻る。

何とはなしに喫煙席へ向けると、しかしそこにハイヒールの姿はない。便所にいたのはものの一分ほどだったろうが、その間に店を出ていったのだろうか。

席に戻るとそれを見計らったように店員がやってきて、メニュの写真より二回りほど大きく見えるカツサンドをテーブルに置く。その大きさに驚きながら、
「この時間は空いているけれど、夕食時はもっと混むの?」
と訪ねてみると、目の前の交差点での事故があって、その影響かどうか今日は特別空いているのだという。いつもは昼から夕方にかけてが最も混むそうで、たまにはここで夕食を済ませるのもいいかもしれない。ついでに、
「喫煙席に紅いヒールのお客さんがいたと思うけど、トイレに立ってる間に帰られたの?」
と尋ねると店員は急に顔を青くして、私が入店したとき店に先客は一人もおらず、
「お店の前で車に轢かれたの、喫煙席をご利用だったお客様なんです。真っ赤なヒールの……」
と、怯えた顔で教えてくれた。

そんな夢を見た。