第五百七十三夜

 
疫病騒ぎで客足の遠のいた観光地に補助金が入って、テレ・ワークが可能な人間が安く宿を取って連泊しながら仕事をするような観光の形式が現れた。同僚の一人がそれで温泉宿に泊まっていると自慢する画面越しの笑みを見て、自分も就業後にでもいいところを探してみようという気分になる。

昼食を終えて会議室アプリケーションにちらほらと人が戻ってきたのを見計らい、昼休みの雑談がてらにいい宿を知らないかと話を振ってみると、写真が趣味でよく撮影のために小旅行に出るという上司が真っ先に反応し、
「宿の下調べは、本当に慎重にしたほうがいいぞ」
と、低い声色を作ってどこか脅かすように凄みを利かせる。

何か嫌な目にでも遭ったのかと尋ねると、
「もう半世紀近くも前のことなんだが」
と前置きし、彼は膝に乗せた小型犬を撫でながら話し始める。

彼の父親が渓流釣りを趣味としていて、小さな頃から山中へ連れて行かれていたという。母も姉も虫を見るのも嫌というタイプで、彼が生まれてそれなりの歳になると天気の好い週末にはしばしば川へ釣り糸を垂れに行き、小学校も半ばになると泊まり掛けで他県の山中へ車を駆ったのだそうだ。

小さな頃のことではっきりした場所は覚えていないが、深い霧に包まれた深緑の谷川の景色が印象的な川へ行った日の晩、山中の民宿へ泊まった。遊び疲れた彼は野球中継を肴に酒を飲む父親に付き合った後、サスペンス・ドラマが始まった頃、夕食後直ぐに敷かれていた布団へ先に横になってしまった。

翌朝、父に文字通り叩き起こされた。目を覚まし、どうやら父が頬を叩いているらしいことを認識してから、何故か自分が壁に背を預けて膝を抱えた体育座りの恰好で寝ていたことを自覚する。
目を覚ました彼に安堵する父親に何故こんなところで寝ているのか問われて周囲を見ると、右隣には黒く四角い塊、左には白木の壁が見え、天井は異様に低い。一体何処なのかわからぬまま父に促されて外へ出ると、そこは押入れの下の段、黒いのは貴重品入れの金庫の側面だった。

昨夜は確かに布団に入って寝たはずだと訴えると、父親もそれは深夜に隣の布団へ入ったときに確認している、酔った頭でもそれくらいは見間違えるはずがないと言う。彼も夜中に便所に起きた覚えはない。

そう告げると父は眉を顰めて言う。昨日の晩、布団に入って寝た後に目が覚めた、尿意もなければ喉の乾きもない、どうしてこんな時間に起きたものかと思うと、
「閉じた押入れの襖の向こうから、何だかブツブツと女の独り言を呟くような声が聞こえてきて、気味が悪くて無視して寝たんだ。そのときにお前が無事かを確認しておかなきゃいけなかったんだ」
と涙声を出し、済まなかったと頭を下げた。

「親父に頭を下げられたのなんて、あれが最初で最後だったなぁ」
と、上司はモニタの向こうで眼鏡を拭いた。

そんな夢を見た。

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