第五十夜

「お、そろそろだな」。
友人の声に壁掛け時計を見やると、十時半を三秒、四秒と過ぎてゆくところだ。
「本当に?」
と尋ねると、
「後三十秒で分かるさ」
と笑って返す。

最低限の家具だけが無機的に並ぶこの部屋の主曰く、この部屋には『出る』らしい。

初めてそれに気が付いたのは、彼がこの部屋を借りて初めての梅雨に入った頃だそうだ。窓辺に置いた机で勉強をするのに蒸し暑くて窓を開けていた。その晩は風もなく、ケラがジィジィと鳴く音に却って蒸し暑さが強調されるばかり。ケラの鳴き声がふと止む。おやと思う間もなくふわりとカーテンが膨らみ、次に網戸に張り付く。ようやく風が吹き始めたかと思うと、窓の外でドサリともべちゃりともつかぬ音がする。慌ててベダンダに出、下を見下ろすが異状はない。そんな経験を幾度か繰り返して彼の達した結論が、毎週金曜の夜十字三十分四十秒頃になると、ベランダの前を若い女が逆さまになって落ちてゆく、というものだった。

なぜ女性と分かるのかと問うと、落ちてゆくリクルート・スーツにポニー・テールを観察したからだと、夏休みの自由研究を自慢する小学生のような返答をくれたのが、今日の昼、ゼミ仲間数人で学食にたむろしていたときだった。彼はその場の皆に観察会への参加を要請したが、オカルトに興味のない者、アルバイトで都合の付かぬ者が辞退して、結局二人きりでの観察会が催されたわけだ。

彼が椅子から立ち上がりカーテンを開けるのを見て、私も座卓の前に敷かれた座布団から腰を上げ彼の傍らに立って窓の外を見る。ちょうどこの部屋の前が丁字路になっていて、前方には所々を街灯に照らされた道路の伸びる様が、網戸越しに見える。

ふわりと生暖かい風が頬を撫でる。と思うと黒い塊がベランダの向こうに現れた。桃色の口紅が薄く、しかしはっきりと笑みを浮かべ、頭から真っ逆さまに通り過ぎる。特徴のない黒いスーツに包まれたワイシャツ、膝丈のタイトスカート、部屋の蛍光灯を照り返すベージュのストッキングに包まれた向こう脛、黒いパンプス。

ドサリともぐちゃりともつかぬ衝撃音。

「本当だったろう?」
カーテンを引いて椅子に腰掛けると、左手で私に座布団を勧めながら尋ねる彼に、
「笑ってた……」
と、掠れた声でちぐはぐな返答をしながら、よろよろと座布団に尻をつく。
「それはそうだろう」。
頷く彼に理由を尋ねると、
「死ぬほど嫌いな状況から、ようやく開放される瞬間なんだろう?」
と言って、小首を傾げて見せた。

そんな夢を見た。

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