第五百四十四夜

 

立つ鳥跡を濁さずの高潔な精神の持ち主というわけではないけれど、一度始めてしまえば単純作業もさほど苦に感じぬ質なもので、三月中に引き上げる部屋の大掃除に取り掛かると、家具の陰になっていたような部分の汚れが綺麗に取れるのが楽しくて、引っ越しの荷物の増えるのも構わず百円ショップやホーム・センタで細々と便利な清掃用品を買って来ては細々した汚れを取って一人悦に入っていた。

室内の清掃も殆ど終わり、今日は網戸と窓ガラスとに取り掛かる予定で、バケツに水を張って洗剤を溶かし、いざ鎌倉と袖を捲くる。

改めて注視する窓ガラスには黄色っぽいような黒っぽいような小さな粉がびっしりと付着していて、花粉症持ちとしては見ただけで鼻の奥がむず痒くなってくる。

今日のために用意した秘密兵器を取り出し、洗剤を溶かした水を染み込ませて窓に向かう。取手と台座にスポンジや雑巾を取り付けられる長方形のプラスチック塊なのだが、マグネットが仕込まれていて、窓ガラスを挟んで動かせば、内側も外側も一挙に拭けてしまう優れ物なのだ。

窓のサッシが九十センチメートル幅のため、腕の短い私ではガラスの中央部にギリギリで届くかどうかで、力を込めて拭くことが出来ない。ましてアパートの三階だから、窓ガラスの外側をキレイに拭けずに居たのだ。

サッシの端から外側のパーツと内側のパーツとを合わせると磁石がしっかりと引き合って、手を離しても安定している。窓の内側のパーツをゆっくりと動かすと、それに引き摺られて外側のパーツも動き、後には洗剤の油膜とわずかにこびりつく頑固な汚れとが残る。

ひとまず一往復したところで外側のパーツを手に取ると、雑巾は既に真っ黒で、バケツで洗ってから付け直し、二度拭きに向かう。

一度目に垂れた洗剤の雫がガラスを伝い、黒っぽい筋を作っている。

その筋を目で追って、ガラスの丁度中央部分に目が行って、そこに手形があるのに気が付いた。手を広げ、中指を上にした右手の形に、汚れがキレイに無くなっている。

目を近付けて観察するに、手形の部分にはほとんど汚れが付いておらず、ごく最近付けられたもののようだ。もちろん、自分でこんなところに触った覚えはないし、疫病騒ぎ以来の丸二年近くはこの部屋に人を招いてもいないから、誰か知人が悪戯をしたのでもないだろう。そもそもサッシの中央部分に中指を上に向けた形で手形を付けるとなると、上半身をまるごと乗り出してもなかなか難しいのではないだろうか。

窓から顔を出して下に続く壁面を見ても、三階まで届くような足場になりそうなものは何もない。

話の種になりそうだとスマート・フォンを持ってきて、黒い汚水の垂れていかにもおどろおどろしく見える手形を写真に収める。その後、秘密兵器で拭ってやると、不思議な手形はあっさりと、跡形もなく消え去ってしまった。

そんな夢を見た。