第五百夜十六

 

一通り取ってきた甘い物を平らげ、温くなった珈琲を片手に談笑していると、斜向かいに座った友人のスマート・フォンがテーブルの上で震えた。

仕事の連絡か何かだろう、ちらりとそちらに目を遣る彼へ掌を差し出して、トイレへ行ってくるからと宣言して席を立つ。

膝に乗せていたマフラを隣の席の荷物に乗せる私に、彼は片手を挙げて謝意を示すと、スマホを手に取って四角く並んだ数字をぽちぽちと押してロックを解除する。

便所への案内板を探してきょろきょろとあたりを見回す私に店員が声を掛けてくれ、無事に便所へ辿り着く。

用を足しながら、ふと下らない疑問が湧く。彼のスマホは、多分かなり新しい機種だ。私も一年ほど前に買い換えを検討した機種で、指紋認証が廃止されて顔認証が採用されている。疫病騒ぎで屋外ではマスクをしていることが多く、その条件では顔認証が機能しないというので購入を見送った。

その機種を使う彼が、プリンを食べながらマスクを外していたのに、何故数字のパスワードによるロック解除をしたのだろう。手に取って画面を覗き込めば、それで顔認証が成立してロック解除は不要になるのではなかったのか。そんなことを考えながら念入りに洗った手へアルコールを刷り込み、ハンカチ越しにノブを握って便所を出る。

席を遠目に見ると、彼は追加で持ってきたらしいマロン・グラッセへ幸せそうにフォークを入れている。私も温くなった珈琲の代わりと、軽く摘めそうなマカロンを数個見繕って席に戻ると、先の疑問を投げかけてみた。
「ああ、これなぁ」
と、彼は甘い物に眼尻を下げたまま器用に眉根を寄せて、暫く前からどうにも顔認証が上手く行かない、出歩く機会が減ったせいで肥って、顔が変わってしまったのだろう、一々パスコードを打ち込むのが面倒だと自嘲気味に嘆く。
「確かに……」
今日久しぶりに彼と待ち合わせをして、控えめに言えば随分と、正直なところを言えば向こうから声を掛けられるまで当人と気付かぬほど雰囲気が変わったように見えたのを思い出す。但し、私の目には肥ったというよりは寧ろ窶れたような印象だった。しかし、思わず口に出しかけたところで何故かそう指摘するのが憚られ、
「マスクで認証できないのも面倒そうだ」
だから自分も、指紋認証機能の付いている機種のままでいるんだと話を逸すことにした。

そんな夢を見た。

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