第四百八十五夜
夕立の中に傘を首で押さえながら、買い物袋を籠に乗せた自転車を押して帰宅すると、何はともあれ空調のリモコンを操作して冷房を入れた。誰も居ない日中に暖められて淀んだ部屋の空気が撹拌されながら、急速に冷えてゆく。
台所の流し台に買ってきた食糧を並べ、一通り洗って冷蔵庫に詰めてから、鶏肉と適当な野菜を入れた鍋に調味料を入れて日に掛ける。
弱火で温めながら、朝方ベランダに干した洗濯物を思い出し、掃き出し窓を開けると、残念ながら夕立の餌食となってびしょ濡れだ。諦めて絞りながらその処置を考える。まだ日の暮れて間もないものの、流石に洗濯機を回せば隣室から怒られても仕方のない時間である。明日の朝方まで水を張った洗濯機に放り込んでおき、洗剤に浸かっていてもらおうか。
鍋の湯の煮立つ音が聞こえてくる。一時作業を中断して蓋をし、圧力が掛かるのを確認してから火を止めて再びベランダへ戻る。
さてベランダへ戻るとすっかり雨は止んでいて、こんなことならもう暫く駅前の量販店で雨宿りをしていればよかった。
妙に冷たい風が地面から立ち上る生暖かい水蒸気を運んできて、肌にぬらりと絡み付いて不快極まりない。さっさと片付けてしまおうと洗濯物を絞ると、雨上がりのそれとは異なる妙な生臭さが鼻を突く。思わず短く声が漏れるほどのひどい臭いだ。手にしたシャツに鼻を近付けても洗剤の仄かな香りがするのみで、臭いはどうやら風に運ばれてきたものらしいとわかる。
顔を顰めながら、できるだけ息を吸わぬよう務めながら洗濯物を急いで絞り、洗濯機に放り込んで手を洗う。気分転換にスープの出来上がるのを待たず晩酌を始めてしまおう。そう思って冷蔵庫で冷やした缶ビールとグラスとを持ち、居間に腰を下ろす。
タブレットを起動して大型画面に動画サービスのニュースチャンネルを映しながらビールを飲む。暫くして気分の良くなってきたところで、鍋からほんのり漏れ出てくる香りに気が付いて、それを機にさきほどの妙な生臭さを思い出してまた少々気分が害される。
風上といえば何があったろうかと頭の中にアパート周辺の地図を浮かべる。幹線道路に面して大きな駐車場付きのコンビニエンス・ストア、中古車のディーラ、一階にクリーニング店の入ったマンションが並び、その裏がこのアパートだ。特にナマモノを扱う店がある訳でない。
鍋の圧の十分に下がったのを確認して蓋を開け、莢豌豆や人参の色鮮やかなスープを皿に掬って居間に戻る。圧力調理では色味の落ちぬのも大きな利点であると一人頷きながら舌鼓を打つ。それで機嫌もすっかり直るのだから、我ながら現金なものだ。
スープと酒とを味わいながら見るともなく流していたニュース番組に、暴走車の事故を捉えた車載カメラの映像が映る。赤信号を無視して直進した車が大型のトレーラの前方を掠めるように衝突し、盛大に吹き飛びながら回転する様子が映っている。
信号が変わって車載カメラを載せた車がゆっくりと事故車の脇を通り抜けようとすると、暴走車には意外にも殆ど凹んだ様子がない。神妙な声色のアナウンサが運転手の死亡を告げなければ、無事だったと思っただろう。
こういう事故車なら、小さな瑕と機械の故障だけを直して、何食わぬ顔で中古車として売られることも有るのかしれぬ。
酔いの回った頭でそんな事を考えていると、先程の生臭さにほんのりと鉄臭さの混ざっていたような気がしてくるのだった。
そんな夢を見た。
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