第四百八十二夜

 

勤め先を移って初めての夜勤中、先輩が二度目の定時の巡回にナース・ステーションを出た足音がだんだんと遠ざかり、階段を上って聞こえなくなった。先程教えられた順路を新人の私が一人で回ると申し出たのだが、ダイエット中だから歩かせろと言って引き受けてくれたのは、新人への気遣いだったのだろう。早く新人扱いを脱して迷惑を掛けぬようにせねばと一人気を吐きながら書類仕事をしていると、病室からのナース・コールが鳴った。

ちょうど巡回に出た先輩が真っ先に向かう予定の四階にある大部屋の一つからで、出ようとする間もなく通話状態になる。先輩が携帯端末で応答したものだろう。そう安堵して元の書類仕事に戻ろうとした途端、今度は三階の病室から呼び出しが掛かる。出れば事故で脚を折った若い女の子の患者さんで、
「どこかお加減が……」
というこちらの口上を遮るように、
「あの、私がどうとかじゃなくて、今窓の外を、その、誰かが落ちていって」
と、潜めた声ながら慌てた様子で捲し立てる。老若男女を問わず、入院に慣れない人はその手の不思議なものを見たと言い出す人が少なくない。不安が原因で見てしまう場合もあれば、構ってほしさ故の虚言の場合もある。が、彼女の声音には他の患者が寝ていることへの配慮が感じられる。自分の経験上それは非常に珍しく、幻覚特有の恐慌の匂いも、狂言特有の演技の匂いも感じられない。

報告に礼を述べ、こちらで対処するから安心して寝てほしい、寝付かれなかったらまた呼ぶようにと型通りの返辞を伝えながら、一階に降りて病室の裏手の地面を確かめに行くべきかと考える。

と、言い終わるより先に二階の病室から呼び出しが掛かる。急ぎそちらに出ると年配の男性から同じ内容の訴えで、同じように返答して通話を切る。確認してみれば四階から二階まで、全て下の桁が同じ部屋番号で、つまり縦に並んだ病室から順に通報されたことになる。何か大きな物がアスファルトなり植え込みなりに落ちるような物音は聞こえなかったが、念の為に確かめたほうがよかろうか。

そう思って懐中電灯を手にナース・ステーションを出ようとすると、ちょうど先輩が戻って来て、気にするなと背を叩きながら席に戻るよう促すのでそれに従う。
彼女はカップに注いだ湯の中でティー・バッグを踊らせながら、時折夜にだけあの窓の外に人の落ちる姿を見るとナース・コールが一斉に鳴る、特に誰かが跳び下りたなんて事実もないと説明してくれる。

あそこは大部屋だから、新しい患者の来る度に暇潰しの怪談としてそんな話が語り継がれているのだろう。不安な患者さんが釣られて妙なものを見てしまうのもよくあることだ。
「ただ、その件でナース・コールが鳴るときは、必ず四階から二階まで、ほぼ一斉に呼び出しが掛かるのよね」
と言うと、彼女は砂糖も入れぬままカップに口を付け、苦そうに顔を顰めて見せた。

そんな夢を見た。