第四百十一夜

 

この半年で、放課後は母の勤め先の工場へ向かうのがすっかり習慣になっていた。学校に併設された預かり施設が一時停止していた期間中に、工場が簡単な施設を整えてくれたと言って、母が嬉しそうにしていたのをよく覚えている。

学校側が運営を再開しても工場側に今更施設を止める利もなく、子供の数も分散して少なくなるから比較的安心だろうと、結局工場に通い続けている。

冷たい雨から逃げるように施設に入ると、まず手洗いとうがいとを促される。アルコール消毒を済ませると宿題を確認され、手早く片付けるとお茶とお菓子が貰える。

ツバを飛ばさないように配慮する意味もあり、宿題を続ける子に配慮する意味もあって皆控えめな声でおしゃべりをしながら遊ぶのだが、その中でいつしか一番人気になっていたのが、子守役のおじいさんとの将棋だった。

まず授業の早く終る低学年の子達がおじいさんに習い、中学年の子達が宿題を終えるとおじいさんに挑んだり、子供同士で指しながら、下手な方がおじいさんに助太刀してもらったりする。それが鬱陶しい指図にも、戦局を決めるような決定打にもならないような程良さで、皆自分が強くなったような気がしてくるのだ。

おじいさんは数年前までこの工場で働いていて、今回の騒ぎで社長さんから声を掛けられて、この時間だけ戻ってくることになったのだそうだ。

お菓子をつまみながら低学年の将棋を眺めていると、不意に尿意を催して部屋を出る。ここの唯一の欠点は、トイレが少々遠いことだ。食堂の横を抜け、何かよくわからない部屋を通り過ぎ、
――おや?
と首を傾げて立ち止まる。

いつもなら直ぐその先が突き当たりで、左右に男女の便所が向かい合っているはずなのだが、先の廊下がやけに長く、そして暗い。

途中で道に迷うはずはない。何しろ部屋を出て右を向いたら、後は真っ直ぐ一本なのだ。この半年、土日とお盆休み以外はずっと通っていたのだから間違いない。

半ばパニックになって辺りを見回すと、不意に、
「どうしたの?」
と声がする。驚いて振り向くと、作業着の男の人が濡れた手をハンカチで拭きながらこちらを見て微笑んでいる。なんと返事をしてよいものか決めかねているうちに、
「迷子になったのかな」
という。やっとの思いで、
「トイレ」
とどうにか一言だけ口にすると、
「ああ、それならこっちだよ」
と水気を拭った手で指で示す先に、確かに見慣れたトイレの入口がある。

お礼を言ってトイレに駆け込んで用を足しながら、先ほど見た長く暗い廊下が何だったのか、通り過ぎるはずのない突き当りのトイレをどうして通り過ぎたのか考えてみたが、どう考えても答えは出ないだろうと諦めることにした。

そんな夢を見た。