第四百九夜

 

始業前、コートを脱ぎ給湯室へ行こうとすると、既に席についていた上司が、
「申し訳ないけれど、私の分もお願いしていい?」
と、こちらにひらひらと右手を振りながら声を掛けてきた。

珍しいこともあるものだと引き受けて給湯室へ向かい、先客の用の終わるのを待ってから二人分の珈琲を淹れる。砂糖やクリームの類は必要なのだろうか。毎日すぐ近くの席で仕事しているのに、意外に把握していないものだ。ひとまずあって困りはしないだろうと、一つずつ手に持って席へ戻る。

どうぞと差し出したカップを、彼女は左手で不器用に受け取って机の上のコースタに置き、続いてスティック・シュガーとクリームの容器を受け取るとき、その右手の異状にようやく目が行った。
「その指、どうしたんですか?」
と素直に疑問を口にすると、彼女は第一関節に絆創膏を巻いた人差し指と中指とをちょきちょきと動かして、
「うーん、命拾い?」
と苦笑する。どういうことかと尋ねる私に、彼女はこんな話を始めた。

昨晩は疲れて食欲もないので、晩酌で済ますことに決めた。エナジ・ドリンクの類でカクテルを作り、簡単なツマミを皿に盛って座椅子に陣取って、モニタで夜の動物園のライブ映像を見ながら飲み始めた。

しばらくするうちに見飽きて、何か面白そうな映像は無いかと検索すると、真っ暗な山中を歩いているらしいライブ映像が見付かる。虫の声、鳥の声、木や草の名前、それらをすらすらと紹介する男性の声に惹かれて、暫くそれを眺めることに決める。モニタの中には闇が広がり、ヘッドライトか何かが僅かに照らす木の葉や枝だけが鮮明に浮かび上がり、それらをかき分けて、視界がゆっくりと前進する。

一度用を足しに席を立ち、戻ってきて煙草に火を付け、モニタに目を戻す。と、ぷつりと画面が真っ黒になる。

操作をしない時間が長くなりすぎて、モニタの電源でも切れただろうか。マウスに触れようと思ってようやく、指一本動かせないことに初めて気付く。子供のときに一度なって以来、久し振りの金縛りだ。

疲れているところにアルコールを入れたせいか、全く覚醒しているつもりの状態から突然金縛りになるとは驚きだ。目も、自覚している限りはぱっちりと開いており、真っ暗になったモニタから視線を逸らすことすらできない。

参った。こういうときはどうすればいいのだったか。般若心経なんて空即是色くらいしか知らないし、似たような怪談話も記憶にないではないが、面白半分で読んでいたから対処法なんて覚えていない。

そのままモニタを見つめていると、真っ暗なモニタの前に漂う煙草の紫煙が揺らめいて、何やら女の横顔の様に見えてきた。いや、居る。モニタに薄く反射する自分の顔の横手から、生気のない女の横顔が額を寄せるようにこちらを睨んで近付いてくる。

その額が正に自分に触れようかというとき、右手の指に猛烈な痛みが走って体が跳ね、続いて金縛りの解けているのに気が付いた。すっかり短くなって指を焼いた煙草を慌てて敷物から拾い上げて灰皿へ戻す。少し落ち着いて気付いてみれば、モニタの中では相変わらず暗い林をかき分けて進む映像が流れ続けていた。
「煙草のお陰で、その女から救われたんですかね?」
と返すと、
「そんなことより、火事にならなくてよかったわ」
と、上司は薬指と小指で耳の脇の髪をかきあげて笑った。

そんな夢を見た。