第三百九十四夜

 

「いないわよ、そんなもの」
と、スピーカから聞こえる母の声には、ただ藪から棒に訳の分からぬことを訪ねてきた娘の真意を測りかねるという戸惑いの色だけが浮かんでおり、隠し事をしていた後ろめたさだとか、どうして知れたのかという焦りだとか、それらを誤魔化そうとする語気の荒ぶりだとかいったものはまるで感じられなかった。

このまま通話を切っては彼女も気持ちが悪かろう。事情を説明してもやはり気分に靄の残ることは間違いないのだが、せっかくなのでこちらの胸に掛かった靄を彼女にもお裾分けすることにして、
「私に、『幼くして死んだ弟』なんていないよね?」
と、唐突に分けのわからぬ質問をした事情を説明することにする。

今日、店に一人の若い女性がやってきた。普段通りに接客をしようとすると、彼女は私の苗字を口にして、
「同じ名字の方が、こちらで働いていらっしゃると伺ったのですが」
と言って小首を傾げた。

それは私だと答えると、彼女はぱっと表情を明るくし、手に持った菓子折りの紙袋をこちらに差し出し、
「弟さんのお陰で本当に助かりました。ただ、連絡先も聞かぬうちに何処かに行ってしまわれて。あのときは本当に動転してしまって、今でも何があったか記憶が曖昧なのですけれど、電話の相手に『姉さん』と呼びかけていらっしゃったのと、このお店の名前だけ、何故か耳に残っていましたの。聞き間違いでなくて本当に良かった。これはつまらない物ですが、お受け取り下さい。それから、くれぐれも宜しくお伝え下さい。本当に有難うございました」
と早口にまくしたて、何度も振り返っては頭を下げながら店を出て行ったのだった。
「へぇ、誰か偶々、同じ苗字のお客さんがいたのかねぇ」
と気の無い返事を返す母は、
「それより、何のお菓子だったの?美味しかったら今度返ってくるときに、同じの買ってきてよ」
と食い気が勝っているようで、
「いや、こんなもの気味が悪くて食べられないよ」
という私に、菓子折りに罪は無い、食べ物を粗末にするなと説教を始めた。

そんな夢を見た。

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