第三百四十夜

 

朝食を終えて洗い物に掛かる妻にへ、
「では、行ってきます」
と手を振って、玄関の自転車を担いで家を出た。四月からの新居候補の幾つかを、サイクリングがてら回ってこいという命令である。

お互い子供の出来ない体質故、猫でも飼おうという話になった。それでペット可の部屋を探し始めたのだが、鳴き声や匂い、住人の様子が気になる、とりあえず朝方の鳴き声とゴミ出しの様子を偵察してこいというのだ。

普段ならこの時間でも出勤、通学の人をちらほら見かけるのだが、今はすっかり静かになって、時折犬を歩かせる人を見かけるくらいだ。

暫くして隣町の新居候補へ到着し、周囲のゴミ集積所を眺めながら、自転車を停められそうな場所を探す。

マンションそのものは犬の鳴き声一つせず、本当にペット可の物件かと疑いたくなるほど静かだ。電柱脇のゴミ集積所を遠目からスマート・フォンで写真に撮っていると、
「おはようございます」
と、挨拶というよりは誰何の調子で、細い女性の声がする。振り返ると、ゴミ袋を片手に私と同世代くらいの女性がこちらを見ており、変質者と思われては敵わぬと、転居先の吟味に来た事情を簡単に説明する。

ゴミ袋を金網製の籠へ入れ、カラス除けの網を被せながら、
「ペットを飼うなら、ここは止めたほうがいい」
と彼女が言う。
「ペット可のマンションなのに、犬の声一つしないでしょう?散歩に出る人も、帰ってくる人も。駄目なんですよ、ここ」
と私を振り返るとポケットからスマホを取り出し、黒いミニチュア・ダックスフントの写真を見せる。もともと成犬でも体の大きくない犬種だが、それでもまだ生後半年ほどの子犬とわかる。
「ここへ越してきてから飼い始めた、念願の子だったんですけどね。二ヶ月で……。越してきたばかりの人は散歩に出るんでわかるんですけど、皆同じみたいなんです。長くて三ヶ月とか、早いと一ヶ月とか。他に変なことは無いんです、自殺とかの話も、幽霊だとかも。ただ、ペットだけは長生きできないって、皆さんおっしゃるの」。
俯く彼女へ掛けるべき言葉が見付からず、とにかく礼を言って頭を下げ、自転車に跨って走り出した。

そんな夢を見た。

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