第三百三十夜

 

「立ち止まらずに御覧下さい」のアナウンスも虚しく、展示品の前には黒山の人集りが出来、列は遅々として進まないでいた。

列から離れた後方の空間に立ち、特別展示の期限ギリギリまで予定を延ばしたのは失敗だったと彼女にこぼすと、
「後悔先に立たず。仕方ないから並びましょう」
と、繋いだ手を引いて列の最後尾へ引っ張られる。

光による劣化を抑えるためか暗い館内に、わずかに照らされたショーケースが浮かび上がり、その中身はいかにも貴重な品々といった風情に見える。

列に合わせて牛歩しながら二つの展示室を見終わると、ちょうど中間点なのか土産物の売店が並ぶ部屋に出て、暗闇に慣れた目が少々痛い。

何か記念に買って帰ろうかと彼女に声を掛けると、彼女は無言のまま手を引いて、残る展示室の列の後ろをずんずんと歩き、遂には館外へ出ても止まらない。

何が何だかわからぬまま、公園内では人通りの少ない道のベンチまで来て漸く立ち止まると、彼女はそこに腰を下ろして泣き始めた。

鞄からペットボトルを取り出して中のお茶をしゃくり上げながら飲み、少し落ち着くと、
「何あれ、見た?」
と、充血した目でこちらを見上げる。何のことかと尋ねると、
「売店の部屋の隅に、何か体中にムカデが這ってる女の人が立ってたの。見えなかったの?」
と首を振る。

脚の多い生き物が苦手なので、想像するとなかなかにおぞましい光景だが幸い私はそんな人物には気が付かなかった。そもそも博物館内にそんな人物がいれば、警備員が追い出すだろう。
「だから、何かの見間違いだよ」
と背中を擦って慰めると、それならその方が怖ろしい、何か曰く付きのものでも展示していたのだと洟を啜る。

本人が見たというものを否定しても仕方がない。機嫌を直してもらうべく、どこか暖かいところでゆっくりしようと言って席を立たせ、喫茶店の集まる駅前を目指して歩き出すと、ベンチの脇で乾いた音がする。何かと思って目を遣ると、積もった落ち葉が微かに動いたような気がした。

そんな夢を見た。