第三百二十六夜

 

小春日和の陽気から一転、日の暮れた街の冷たい風に肩を窄めながら、冷蔵庫の中身で何が作れるか思案しつつ帰途を歩く。

駅前と私の住むアパートのある住宅街とを区切るように流れる幹線道路の信号に引っかかる。脚を止めるといっそう寒さが身に沁みて、せめてマスクに口から息を吐いて暖を取る。

――食事の前に風呂を沸かして入ろうか。

そんなことを考えながら、漸く変わった信号をぞろぞろと渡り、住宅街へ入って一つ角を曲がるともう前も後ろも人気がなく、暗い道を一人歩くだけになった。
「すみません」
と脇から声がして目を遣ると、小さなマンションの駐輪場の中に、腰の曲がった老婆が海老茶色のコートを着てこちらを見ている。

何の用かと思いながらも、歩調を緩めず歩いていると、
「開けてくださいませんか」
と、彼女が再び口を開く。

悪戯防止のためなのか、駐車場と道路の境に長い蛇腹式の門扉が左右に開くように備え付けられている。そんなものが中から開かぬということがあるのだろうかとは思うが、歳を取ればあちこちにガタの来るものだから、何か障りがあるのだろう。

疑問に思いながらも、この寒い中に老婆を屋外で閉じ込めておくのも気が引ける。斜めに歩み寄って取っ手を引けば、門扉を開けるのは容易だった。

頭を幾度も下げながら中から歩いて出てきた老婆が改めてこちらを向き直り、
「ありがとうございます」
と頭を下げるのに、
「大したことでは」
と応じながら門扉を元通りに閉め、振り返る。

と、そこに老婆は居ない。マンションの脇に真っ直ぐ続く小道にさえ、もう誰もいない。

自転車を押して出てきたのなら、遅い時間だが買い物にでも行ったかと思うが、あの腰の曲がりようで、こんなに早く死角になるところ、例えば電柱の陰まで歩けるだろうか。

思わず小首を傾げて空いた襟とマフラの隙間に吹き込む風の冷たさに我に返って、温かい風呂の待つ我が家への道を再び歩きだした。

そんな夢を見た。