第三百二十四夜

 

妻がインフルエンザで床に伏せたために、娘達の弁当など慣れない朝の支度に手間取って、家を出るのが普段より三十分ほど遅くなった。

最寄り駅までの道を人の流れに沿って歩きながら、今晩はどこかで妻の好物でも買って帰ろうかと考える。

改札を通り、乗り換えに便利ないつもの位置に並ぶ。当たり前のことだが、三十分ずれた分だけ、列を成す顔触れがいつもと違う。私からすれば見慣れぬ人達が並んでいるわけだが、彼・彼女らからすれば私こそ珍しい顔なのだろう。

くだらないことを考えているうちにホームへ電車が入ってきて、開いた扉の先、満員の車内に人が吸い込まれてゆく。

流石は首都圏でも有数の混雑具合を誇る路線だと、生暖かく湿度の高い車内でぎゅうぎゅうに押し縮められながら感心する。これが嫌で、いつもは用もないのに早く出掛けているのだ。

発車を知らせるベルが鳴り、扉を二、三度開閉して、電車が動き出す。途中駅を幾つか飛ばすので、次の停車駅まで五分ほど、密室となる。周囲の人間の位置取りが定まって、押し合うことがなくなると、不快感はぐっと減る。元があまりに不快だから、現状でも十二分に不快なはずが、随分楽だと錯覚するのだろう。

スマート・フォンなどを取り出して構える隙間もないし、そもそもこの曇った眼鏡では車内広告を見ることも叶わぬ。そう観念して目を閉じ、イヤホンから聞こえるピアノの音に集中することにする。

と、落ち着いたはずの車内で、隣からぐいぐいと押されるのに気が付いて、その正体を探るべく、薄く目を開ける。隣の女性の頭の上から車内が割と遠くまで見渡せる。どうやら扉一つ向こうの方から、髪の長い大学生風の男が、身じろぎするのもやっとという満員電車の中を無理に人を押しやって、じりじりとこちらへ向かってきているようだ。

俯いた男の表情はまるで見えないが、却って行動の異様さが際立つ。腹を立てて邪魔をする者はおらず、ほんの僅かにしか動けない中、賢明に彼から距離を取ろうと身を避けているように見える。

雨戸を立ててじっと台風の過ぎ去るのを待つように、もう一度目を瞑ってじっとピアノ聞きながら、彼が通り過ぎるのを待つ。

周囲の身じろぎが激しくなり、身体に今までにない方向から、他人の体の当たるのが感じられる。と、イヤホンのノイズ・キャンセル機能のお陰で綺麗に雑音から切り離された、男の陰気な囁き声が、
「いい死に方、知りませんか」
と言うのが聞こえた。

そんな夢を見た。