第二百九十三夜

 

心配だから帰ってこいと言われ、台風の週末を実家で過ごすことにした。

どうせ風と雨で何処へ出掛けることも出来ないのは確かだが、田舎の木造平屋建と鉄筋コンクリートの単身者向けアパートとでどちらが安全だろう。そんな疑問はあったものの、大した距離でもないので呼ばれるままに従った。あるいは父も歳を取って心細いのかもしれない。

そんなことを考えながら勤務先からアパートへ戻り、実家で二日を過ごすための荷物をまとめ、本数の減った電車に乗る。風が多少ある程度で運行に支障の出るほどではなさそうだが、本数を減らして明日の台風上陸やその後の風雨に対策をということなのだろう。

人気のない列車に乗って父に到着時刻をメールで告げると、暇潰しに持ってきた文庫本の頁を繰るだけの時間が過ぎてゆく。

一定のリズムで響く走行音の他に何の音もない車両内から、山の迫る海岸沿いに進む列車の窓外に時折、波が白く砕けて光るのが見える。台風はまだまだ南海上の離れたところにあるはずだが、海は既に大時化の模様だった。

本の残りの頁が心許なくなってきた頃、父からメールの返信が来る。曰く、夕方にうっかり買い忘れた食料やらを道すがら買ってこい、金は出すので駅からタクシィを使え、買い物の間は店の外に待たせておけという。

自分で車を出せば良かろうにと思い、迎えに来てとメールを打ち始めて、はたと指が止まる。

そういえば、子供の頃から父は、嵐の日に決して家を出なかった。早いうちから漁師仲間と船や道具を片付け、雨戸を閉じて一日家に居た。学校の送り迎えなどで出掛けなければならない用事は全て母がやっていたのを不思議に思ったことがある。

いや、中学生くらいからは正直、漁に出られず他にすることがないのなら、母の代わりに外へ出る仕事くらいすればいいのにと憤っていた。

タクシィを降りて玄関を開けると、父がよく帰ってきた、買い物を有り難うと礼を言って荷物を受け取り、
「風呂が沸いているから入って来い、飯の支度がまだ掛かるから」
と台所へ消える。

自分の荷物を懐かしの自室に運び、着替えやら風呂道具やらを取り出して風呂場に向かいながら、台所に立つ父の背に話し掛ける。
「お父さんさ、昔っから嵐の日は外に出ないよね」。
少々非難がましい口調になったのを反省しながら父の方を見ると、彼はせっせと包丁を動かしながら、
「あれ?お前には話してなかったか?ここらじゃ漁師は皆そうよ」
と笑う。
「嵐ってよりは、時化のときだがな。漁師は嵐の日、特に日が暮れてからは出歩いちゃならねぇんだ。海女房に連れてかれちまうからな」
との言葉に思わず、
「そんな迷信、信じてるの?」
と呆れた声を上げると、彼はこちらを振り向いて大袈裟に首を振り、
「漁師やってりゃ験担ぎも大真面目に仕事のうちよ。それにな、お前の生まれる前に死んだ俺の親父も、時化の日の夜に山の方の親戚の手伝いに出て、翌朝の海で死体が上がったんだ。迷信なもんか」
と口を尖らせる。その手に持った包丁が、ぬめりと輝いて見えた。

そんな夢を見た。