第二百九十二夜

 

「ねぇ、あの部屋は駄目だよ」。
始発前、二時間ほども寝ていない皆を叩き起こし、腹が減ったと言ってファミリ・レストランのチェーン店へ連れてきた張本人が、珈琲を一口飲んで放った第一声がこれだった。
「え?どういうこと?」
と、返す言葉に思わず怒気が交じる。

これまでのアパートよりも少々ベッドタウン寄りの駅の近くに、家賃が三分の一で済む部屋を見つけて引っ越した。それを聞きつけた友人が男女数人で引越し祝いと称して酒を飲みに来、そのまま酔って眠ってしまった。その日のまだ暗いうちに新居を貶されたのでは、たとえ酒の残って眠い頭でなくても腹が立ったことだろう。

他の友人達も呆れた顔をして、何を言っているのかと彼女を批難する。具体的に何がどう「駄目」かと訊ねても頑なに「あの部屋は駄目」とだけ繰り返し、呆れた皆で彼女を置いて帰ろうかという話になって漸く、
「見ちゃったの」
と言い、胸の前で手をだらりと下げてみせた。
――ああ、なるほど。

友人達の中にも幾人かは、同じことを思ったろう。他人の気を引くために、他人に見えないものを見えると言って目立ちたがる人物というのは時折見掛けるものだ。本当に「見える」人もいるのかもしれないが、怪談話をしているでもない場面で言い出す者や、それらしい素振りをしながら話を引っ張って「本当は言いたくないけど聞かれたから仕方なく答えた」という雰囲気を作ろうとする者は、経験上どうにも胡散臭く思われる。今回は後者に該当した。だから先程の感想になったのだろう、などと分析する。

その間に彼女が語った内容を要約すると、酔い潰れてソファで寝ていたら、ワンルームと玄関とを仕切る扉の前に天井から女が首を吊ってぶら下がっているのが見えたということだった。

しかし、部屋の照明は部屋の中央、換気口は窓側の部屋の隅にあって、扉の前に縄を掛けるられるようなものはない。加えて、他の友人達も私も、そんな物は見ていないと口を揃えた。

結局、広義の首吊自殺ならば、身長より低い位置にあるドア・ノブででも出来ると聞くが、
「天井からぶら下がるっていうのは無理じゃないかな。寝惚けて見間違えたか、怖い夢でも見たんだよ」
と宥める。

それでも絶対に見た、間違いないと言い張る彼女へ友人の一人が、
「それなら、『部屋に出る』んじゃなくて、『貴女に憑いてる』んじゃないの?」
と訊ねると、彼女を除く皆がそれに賛同するとそれきり彼女は黙ってしまい、他に客のいない店内はすっかり静かになった。

そんな状態が一分か二分続いただろうか。嗚咽を堪え、肩を震わせている彼女の脇へ、バツの悪い顔をした店員がやってきて各々の頼んだ朝食を置いて行く。が、カボチャ入りのティラミスだけは誰の頼んだものでもなく、デフォルメされた可愛らしい幽霊が黒いトンガリ帽子を被って笑う姿の描かれたチョコレート飾りが、食事をする我々を楽しそうに見詰めていた。

そんな夢を見た。