第二百八十七夜

 

友人の声に顔を上げ、本を閉じてベンチを立つ。雑貨屋や服屋を見て回るつもりで待ち合わせをしていたのだが、予定より十分早く着いてから三十分も待たされた。

寝坊でもしたかと尋ねると、彼女は私の横を歩きながら、
「それがひどいの、聞いて」
と、顔の横でハエでも叩くように、スナップを効かせて手首から上を払う。まだ高校生なのにまるきり話し好きのオバちゃんのような仕草をする彼女に待たされていた苛立ちもやや治まり、つまらぬ理由なら飲み物を奢らせるぞと軽口を叩いて話の続きを促す。
「それがさ、普通に間に合うように家は出たの」。

ところが、彼女の住むオート・ロックの共用玄関の自動ドアが開かない。ドアの周りをウロウロしても、頭上のセンサに向かって手を降っても一向に開かない。十分ほど甲斐なく試行錯誤したところで漸く、買い物帰りの住人と入れ違いに玄関を脱出出来たのだそうだ。
「内側のセンサだけ壊れてたの?」
と問うと、彼女は、
「それがね、違うのだよワトソンくん」
と顔の横で人差し指を振ってみせる。
「リップが切れてたから、それと飲み物だけ買おうと思ってコンビニに行ったんだけど」
そのコンビニエンス・ストアでも、やはり自動ドアが開かなかった。幸い直ぐに買い物を終えた客と入れ違いに店へ入ることができたのだが、
「なんと店員に全く相手にされなかったの。相手にされないって言うか、そもそも私に気付いてないっていうか」。

そのために結局買い物をは諦めて、最寄り駅へ向かったそうだ。
「自動改札のICカードはちゃんと反応したんだけどね。歩いてても本当に見えてないみたいにぶつかって来るし、電車に乗って、流石に膝の上に座られたくないから立ってても、同じ吊り革を掴もうとしてくるし」。

ただでさえ休日で人出の多い駅の構内で、周囲がまるで避けようとしない中を歩くのも困難で、それらの合算が約二十分の遅刻だという。
しかし、
「じゃあ、何で私には普通に見えるし、声も聞こえるの?」
と尋ねる私に、
「本当に、振り向いてくれなかったらどうしようかとドキドキしながら声かけたんだから」
と、彼女は今更ながら目の下で人差し指を左右に振って泣き真似をしてみせる。

それなら、一緒に何処かのコンビニへ飲み物とリップ・クリームを買いに行こうと提案すると、彼女は自信有りげに頷いて、こんな話を信じられないのは当たり前、
「そもそも自分でも信じられないし、ちゃんと反応するようになってても嬉しいから」
と言って乗り気である。

しばしば通う大きな商業ビルの一階部分に自動ドアの店舗があったはずだと歩いて向かう。彼女の左に立って歩くのだが、確かにやたらと右側近くを人がすれ違おうとするのが分かる。徐々に道の左へ追いやられながら店へ向かいながら、これは試すまでもないのではと思い始める。

店へ着いて自分は脇へ退き、自動扉の正面に彼女独りを立たせると、予想通り扉はうんともすんとも言わない。
彼女から財布を預かり、ペット・ボトルの烏龍茶とリップとを買って、人通りの少ない裏通りへ避難すると、
「やっぱりまだ駄目みたい。どうしようこれ」
と、眉根を寄せる彼女の顔は、今度は心から困っているように見える。

兎に角訳のわからない事態に、そのうち治るとも、気にするなとも無責任なことを言うのがはばかられ、しばし唸った後、私の口を突いて出たのは、
「映画、ただで見られるんじゃない?」
という、前向きながらほぼ犯罪であろう提案だった。

そんな夢を見た。