第二百六十二夜
露天風呂を堪能して部屋へ戻る途中、すれ違った仲居に地ビールを頼んだ。
汗をかいて火照った体に冷えたビールをと考えるだけで頬が緩む。出張で年中あちこち飛び回っているうちに、楽しみといえば酒ばかりになってしまった。
ペットを飼うにしても、草木を育てるにしても世話も出来ない。いっとき写真を始めてみたが、機材の重さや雨濡れ対策などに疲れて止めてしまった。家に長く居るでもないから蒐集趣味も割に合わない。
温泉も好んで入るが、どこにでもあるというものでもない。自然、行く先々で仕事終わりに地元の美味いものをというところに落ち着くわけで、腹に肉の付くのにそう時間はかからなかった。
部屋に戻って冷房を入れ、籐で編んだ椅子に腰を下ろそうとすると扉がノックされ、愛想よく笑顔を浮かべた仲居が頭を下げ、
「どうぞどうぞ、お掛け下さい」
と言いながら卓の上に瓶ビールとグラスを並べる。
何かツマミはと尋ねると、テレビ台の下から品書きを取ってきて、
「今日の板長さんのおすすめは……」
と、話し好きによく居る、柔らかいのによく通る声で丁寧に説明してくれる。
猪や鹿のサラミなど、珍しいものを幾つか頼み、瓶を開けるのはそれを待ってからにしようと言うと、
「温くなってはいけないから」
と仲居が瓶に手を伸ばす。手間を掛けては申し訳ないからと断っても、
「おもてなしに手を抜いては私が怒られますから」
と言って引かないので、そういうものかとお願いする。
頭を下げて仲居が部屋を出ると、冷房が効いてきたのか、送風口から足元に届く風が冷たく心地好い。いつの間にか汗で貼り付く浴衣の背にその冷風を当てようと機械の近くまで行くと、横手の床の間の掛け軸に目を奪われた。
墨の濃淡で描かれた壺の絵だ。いや、ツボと言うよりは瓶だ。玄関先に置かれて傘立てに使われたり、あるいは中でメダカでも飼うような、ごろんと丸いあの瓶だ。
油絵の静物画ならともかく、水墨画でこんな人工物を描くものは珍しいのではないかと思って眺めていると、先の仲居が戻ってきて、窓辺の卓に酒とツマミを並べ始める。
酌を受けに戻りながら、
「変わった掛け軸ですね」
と言うと、
「あら、何か失くなりました?」
と眉の端を大袈裟に下げて泣きそうな顔をする。そうではないが、瓶の絵なんてと言ったところで気が付いて、
「失くなるって、何がです」
と尋ねると、彼女は観念したように、
「あの絵の瓶の中には河童が住んでいるんです。お酒が大好きで、部屋に置いたまま目を離すと、コップの中身が減っていたり、瓶ビールが丸ごと失くなっていたりするんですよ」
と、実に迷惑そうに眉を顰め、
「お客様も盗られないように、お酒は小分けに注文なさって下さいね」
と念を押した。
そんな夢を見た。
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