第百十二夜
積まれた雪の融け残る住宅街の夜道を歩いていると、
「すいません、はい、どうも、ええ」
と、男の大きな声が響いた。相手の声の聞こえないことから推して、携帯電話で話しているのだろう。
振り向いても人影はない。静かな街だから、どこか横道か、一本向こうの通りかから聞こえてくるのだろう。近所迷惑な男である。
――電話の迷惑といえば……
と雪を避けて歩きながら考える。電車の中の通話も、しばしば迷惑だといわれる。集団で大声で話すほうが余程迷惑だろうという人もいるが、迷惑か否かは程度の問題ではない。こういう風に話題を逸らすのは詭弁の一種、姑息な言い逃れである。
といっても、私は特に電車の中での通話を迷惑には思わない。が、酒の席でそれを上司へ打ち明けたところ、意外と説得力のある理由付けを熱弁されたことがある。
「電車という密閉空間で、ただ一人の人間が外部と通信をしているというのはね、スパイみたいなものなんだよ。電車の車両という空間の中で、そいつ一人だけみんなの属している『こちら側』じゃなくて、みんなの知らない、そいつだけが知っている『あちら側』に属してるんだ。肉体的には同一の空間にありながら、精神的には別の空間に属しているといってもよい。要するに、余所者がいるからその空間の居心地が悪くなる。顔なじみばかりの店に一見さんが来たようなものさ」。
塩漬けのオリーブをツマミに力説する彼を見て以来、そういう考えにも、電車内での通話は控えることにしている。
そんなことを思い出しているうちに、
「すいません、はい、どうも、ええ」
の声が随分と近く、より大きく聞こえるようになっていた。音のする方向からして、少し先の交差点を左側からこちらへ近付いているのだと知れる。
男の声がずっと同じ言葉を繰り返しているのに気が付いて気味の悪さを覚え、鉢合わせにならぬよう道路を渡って右側の歩道へ向かう。
案の定、左手からスーツ姿の男が現れ、赤信号に捕まり横断歩道の手前で立ち止まった。相変わらず、
「すいません、はい、どうも、ええ」
と大声で繰り返している。
こちらの進行方向が青信号のうちに横断歩道を渡ってしまいたい。そう思って足を速めたとき、LEDの灯で男が右手に持つ物がようやくはっきりと見えた。
黒電話の受話器であった。
そんな夢を見た。
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