第三十四夜 革の小物入れのボタンが取れていた。親父の遺品の年代物で、革紐をボタンにぐるりと巻いて閉じるのだが、茶色く変色した凧糸だけを残してそのボタンが無い。出先で紛失したのだろう、家中どこを探しても見つからない。しっと […]
第三十三夜 目の前を蝿が飛ぶのが見えたので、舌を伸ばして捕らえて口へ運ぶ。シャリシャリとした顎触りが心地好い。動かなくなったのを確かめてから嚥下する。腹の中で暴れられると不愉快なのである。 と、視界の隅に朱く細長いものが […]
第三十二夜 たまには手を抜こう。 そう思いながら机に向かい、日記帳を開いて万年筆を執る。 今日は低気圧のせいか頭が重いし、明日は朝早くから仕事が入っている。気合を入れて書いたところで誰が読む訳でなし、こんな日くらいは手を […]
第三十一夜 物干しから洗濯物を取り込んで、床に並べた洗濯物を畳んでいる。 シャツを畳んで重ね、パンツを丸めて並べ、靴下に取り掛かる。色や模様を見て、一対になっている二本を手に取り、口を揃えて折り曲げて纏める。柄を揃え左右 […]
第三十夜 事務所で机に向かいカタカタとキィ・ボードを打っていると、「こんにちはー」と語尾の間延びした大声とともに長い茶髪の女性が入ってくる。 仕事上の知り合いで、まだ若いのにこれでもかと派手な服装と化粧をしていることも含 […]
第二十九夜 寝付かれずに布団の上で身を捩る。何とは無しに目を開けると、何が光源になっているのか、青く暗い部屋の様子が辛うじて見える程度には明るい。 どきりとした。視線の先で、扉が閉まっていたからだ。寝室の扉は寝る前に必ず […]
第二十八夜 職場の入ったビル一階のエレベータ・ホール。上層階直通のこのエレベータを利用する者は他にいないらしく、私だけが扉の前、正面から身体半分左へずれた位置に立ち、到着を待っている。 ポンと音が鳴ってエレベータの扉が開 […]
第二十七夜 指に巻いた縄を肩に担ぎ、満月の低く昇る山道を登る。酒屋の主人と酒代を負ける負けないを決めるのに指した将棋が長引いて、家路に着くのが遅くなった。勝って上機嫌の奴さんが提灯をと申し出たのを、負けて負からなかった口 […]
第二十六夜 「かあいそう」 春めいて柔らかい日差しの下に甲高く舌足らずの声が響いた。何事かと目を向けると、揃って桜色に装った母娘が上を見上げている。その視線の先から、脚立の上で桜の枝を打つ胡麻塩頭の職人が笑いながら諭す。 […]
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