第九夜

つるりと艶のある赤茶色の鬼皮の先端、ほつれるようにささくれ立って尖った先を下にして、イガに付いていた凸凹の台の部分と鬼皮の境目に小刀の刃を差し入れると、下茹での際に染み込んだ湯が滲み出て刃の上に露の玉を作る。クイと角度をつけて肩を撫で上げるように皮を剥くと、淡い黄色の実が刃物に切り出された鋭利な直線の中に覗く。刃を再び台座と鬼皮との間に滑り込ませ、その隣の一画の皮を同じように剥く。

不意に栗を混ぜた強飯を喰いたくなって、栗の皮を剥いているのである。鉛筆を使わなくなってどれくらい経つか、長いこと触ることもなかった肥後守だが、昔取った杵柄、力も付き手の皮も厚くなった今のほうが却って思うように扱えている気がする。子供の時分に手伝いで剥かされた折は食い意地からか貧乏性からか、出来る限り実を減らさぬよう渋皮を薄く薄く剥こうとしていたものだが、そういう努力の割に合わぬことを学んで大胆に実を削っているのも、作業の手早い原因かもしれない。

懐かしい道具を手に、懐かしい作業をしているためか、『大きな栗の木の下で』が脳裏で流れ始める。

最も丸みの強い部分を一息に削るのを諦め一度皮を切り落としながら、「大きな」という修飾語は、「栗」に掛かっているのか「木」に掛かっているのか、小学生の時分に級友たちと論争になったことを思い出す。

「木」に掛かるのなら、「栗の大きな木」という語順にして誤解の無いよう努めるべきだ、だからこの歌詞は「大きな栗」の生る木を意味しているのだというのが、私の支持する一派の主張であった。
 
これに対して、二人の子供が下で遊び回れるのだから「木」が大きいのは自明であるという一派がいた。が、これは事実関係と文章の解釈を故意に混同した詭弁であり、「大きな栗」派の主張は決して「木は大きくない」または「木は小さい」などと主張していないし、「栗の実が大きいこと」は「その木が大きいこと」は背反でないという反論によって、「大きな木」派は沈黙することとなった。正確には、諦めの悪い者や理屈の解らぬ者が数名、語順は歌の拍子に合わせて道理に合わなくなったのだなどと作詞家に対して大変失礼な主張をし出したりもしたのだが、これは屁理屈でしか無いと直ぐに見抜かれ、誰も取り合わなかった。

栗の皮は両脇と曲面とを剥かれ、平らな面と、底でイガと接続していたざらつく部分を残すのみとなった。平面部分を爪で押すと、ペコリと凹むので、渋皮ごと剥くのを諦め、まずは外の硬い皮を刃と親指とで挟み、剥がすようにして剥き、渋皮は実の僅かに凹んだ曲面に合わせて削り取ることにした。

ちまちまと渋皮を削りながらあらためて考えると、もう一つ可能性が思い付く。それは「栗の木」が、「クリノキ」というように、植物の種類を指す一つの名詞であるという考え方だ。例えば、「菜の花の種」という場合、「菜の花」は「ナノハナ」という草の種類であって、「菜の種」なのか「花の種」なのかを悩むことがあるだろうか。同様に、「栗の木」も「クリノキ」で一つの単語ならば、大きいのは「クリノキ」なのだと、解釈は一つに定まる。

渋皮を取り終え、台座の部分を水平に切り落とすと、手元には綺麗な淡黄色の多面体が残った。灰汁抜きに、水を張った丼へ沈めて、次の栗を手に取り、台座と鬼皮の境へ刃を押し込む。

ふと、もう一つの可能性、ただし冗談のように馬鹿げた可能性に気が付いた。それは、「実は何も大きくない」という可能性だ。つまり、「あなた」と「わたし」が極端に小さいために、「栗」でも「木」でも「クリノキ」でも、とにかく大きく見えるのだ、という可能性だ。この考えを受け入れれば「大きな」ものなど存在しないのだから、その修飾する相手についての議論を放棄することができる。我ながら「迷」案である。

愚にも付かぬ下らぬトンチを思い付き、上機嫌で小刀を滑らせる私に、茹で上がって息絶えた虫が栗の実の中から恨み言を言うようにぬるりと身を乗り出した。

そんな夢を見た。

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