第八百七夜

 
 午前二時、クーラーボックスを荷台に乗せた自転車に跨って、荷物を背負い家を出た。明日は仕事が休みで、久し振りに近所の川に出て夜釣りを楽しもうという魂胆だ。
 今年の夏はとにかく気温が高く、夜になっても熱気が引かなかった。川辺に座っていても川の流れが引っ張ってくる空気自体が周囲に林立する高層マンションに温められたものだから、深夜になってもまるで清々しくない。それを初夏に味わってしまったものだから、丸二ヶ月ご無沙汰をしていたのだ。
 ところが今日は一変し、朝から驚くほど涼しかった。秋雨前線が下りてきたものらしく、前線が跨いで秋の空気の領域に入った訳ではないそうだが、それでも前日の残暑から、最高気温も最低気温も十度近くも下がったと聞く。
 実際、半袖姿で自転車を漕ぎ始めて直ぐに自転車を止め、荷物からウィンド・ブレーカを取り出して羽織った。登山やキャンプ用品のブランドのもので、薄く軽く携帯性の良い割に機能が高いお気に入りのものだ。それでも残りの道程を走るうち風を浴びる手や顔から体温を奪われ、予定外にコンビニエンス・ストアへ寄り道し、温かい珈琲を補給する。
 懐に温かい缶珈琲を懐炉代わりに入れ、自転車を駆って約二ヶ月ぶりの川岸に着く頃には脚の筋肉の動いた分だけ体も温まっていた。
 川面に糸を垂らしてラジオを流していた顔見知りがブレーキ音に気が付いてこちらを振り向く。互いに挨拶を交わし、世間話をしながら荷物を広げていると、ものの五分で再び体が冷えてくる。
「そりゃ、そんな格好じゃなあ」
と言う彼は、足元に広げた携帯コンロで手鍋に湯を沸かし、袋麺のパッケージを顔の横で振って見せる。
 天気予報の気温を根拠にそこまでするほどの寒さではあるまいと口を尖らせる私に、しかし彼は苦笑して、
「慣れってのは怖いもんだよ。身体の方は昨日までの馬鹿みたいな暑さに合わせて調整してるんだから。こんな風に吹かれて座ってたら、簡単に低体温症になるぞ」
と、新しく取り出したマグカップに湯を注ぎ、インスタント珈琲の小瓶とともにこちらへ差し出す。
 礼を言いながら近寄ろうとすると、川から大きな水音が聞こえ、思わず振り返る。大きな魚でも跳ねたのだろう。目を凝らしても、川の対岸の街の灯が水面に揺れるばかりで魚影は見えない。
「大物ですかね」
と言いながら顔見知りの方を振り返ると、しかしそこには誰の姿もない。川へ掲げた釣り竿も、広げた釣り道具も、折りたたみの椅子やその足元で湯気を立てていたコンロや鍋も一切が見当たらず、ただ真っ平らに整えられたコンクリートの地面が広がっている。
 既に低体温症の幻覚が見え始めているものかと、慌てて荷物を畳んで家に帰ることにした。
 そんな夢を見た。

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