第七百九十夜
肌にまとわりつく熱い空気に汗を拭いながら駅に付くと、改札へ向かう階段に人だかりができていた。事故でもあったかと自転車を押しながら送ってきてくれた友人と顔を見合わせていると、駅員の持つ拡声器から落雷のために沿線の一部区間で停電が発生し、その影響でこちらまで運転を見合わせているという。
それを聞いた友人はスマート・フォンを取り出して落雷の様子を調べると、あと三十分かそこらで雷雲がこちらに流れてくる予報だと言って画面を示す。
復旧までどのくらいかかるのかと耳を澄ませていると、停電の原因となった雷雲以外にも発達中の積乱雲があり、復旧作業を始める目処も立たないという。今日中に間に合うかもわからぬ復旧を待つよりは、雨の降り出さぬうちに自分の家に来て泊まっていけという友人の言葉に甘えることにする。
彼女の借りるワンルームは東西に並行に走る二本の私鉄の駅の中間点にあるという。学生割りで駐輪場は格安だから、部屋の広さと家賃の安さ、利便性を考えれば駅から多少遠くてもお得だという。速歩に途中の量販店で夕食と翌朝の朝食、替えの下着や歯ブラシ等を買い揃え、彼女の部屋へ付く頃には、パラパラと雨粒がが落ち始めていた。
プラスチック製の屋根のついた駐輪場に自転車を停め外階段を上る間に、雨粒はみるみる大きくなって音を立て始め、三階に上る頃には外廊下に降った雨が階段の端の溝を滝となって流れ出す。
靴を濡らしながらどうにか部屋の戸の内に身体を滑り込ませると、部屋の窓が青白く光る。数瞬間を置いて乾いた爆発音が響き、窓硝子がビリビリと音を立てる。直ぐ近くに雷が落ちたようだ。
「とりあえずこれで足を拭いてそのままお風呂に入っちゃって。着替えは用意しといてあげるから」
とタオルを持ってきてくれた彼女に礼を言って指示に従う。自分で濡らした床を拭く彼女へ、
「部屋、すごく片付いてるね」
と素直な感想を述べる。背の高い家具は本棚一つだけ、背の低い家具が壁に沿っていくつか置かれている他は押入れでも使っているのだろうか、家具の上には置き時計やアクセサリ入れなど最低限の日用品とぬいぐるみくらいしか無い。財布から取り出したレシートやら郵便物やらが増殖していく私の部屋とは大違いだ。
そんな部屋の壁に一つだけ、A3版くらいのコルク・ボードが掛けられていて、小さなカレンダや写真、時間割や何かの書類やらがが尿で止められている。なるほど、お洒落に部屋の空間を活用するにはこうすれば良いのかと感心していると、突然ボードが滑り落ちた。
「ああ、またか」
と友人はベージュのクッションに落ちたそれをこともなげに拾い上げ、壁のフックに掛け直す。
「『また』って、それ、よく落ちるの?」
と尋ねると、彼女はその背面の黒い紐を引っ張ってこちらに見せ、
「そうなの。壁のフックが外れるわけでもないし、紐が切れたりほどけたりしてるわけでもないんだけど。一週間に一回くらいかな」
と平然と言う。壁際の床に無造作に置かれたクッションは床の保護のためだそうで、
「ご飯のときとか、ここに座っちゃ駄目だからね、危ないから」
と彼女が冗談めかして笑うと、再び窓の外が白く光り、窓に打ち付ける雨音が一層大きくなった。
そんな夢を見た。
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