第七百八十八夜
最寄りの駅から私鉄や旧国鉄を乗り継いで一時間半掛けて辿り着いた駅前は観光地らしく開発されていた。が、そこから持参した自転車に乗って山道の入口を目指すと、辺りに昔ながらの山村らしい農地と作業小屋しか見えなくなるのに十分も掛からなかった。
入口近くに大きな駐車場を備えた大型のコンビニエンス。ストアが有り、氷や水を買って背嚢に詰め、いよいよ登り坂に入る。山道といっても川の崖沿いで、崖の向こうには広い扇状地に広がる農地や、点在する集落が見渡せる。時折それらに目をやりながら、夏の日差しを少しでも多く受け止めようと枝を張った木々の木陰を走る。
風は弱く、よく晴れて暑い。時折山側から風が吹くと、草いきれの香のする冷たい空気が頬や脚の熱を奪ってくれる。そんな心地よさに調子に乗って、気が付くとすっかり脚を使い果たし、上り坂が壁になった。
そこらの路傍に腰を下ろせる石でもあればと思いながら重い脚をどうにか動かしていると、少し先、坂の幾らか平坦になったあたりに「氷」の旗を揺らす小屋が見えてくる。
店先の大きな柿の木の下に自転車を停め、硝子の嵌められた木戸を引き開けて店内へ転がり込むと、巨きな身体をした初老の男性が、愛想よく「いらっしゃい」と体格に相応しい声で出迎えてくれる。
彼は何処でも好きな席に座るよう言うとカウンタの後ろでお茶を淹れ、
「これはサービス」
と言って湯呑みを差し出し、落ち着いたらカウンターの上の品書きから何か頼んでくれと言ってカウンタ裏に戻って腰を下ろす。その視線の先にはテレビがあって、
「野球ですか」
「夏だからね」
「甲子園?」
「いや、まだ地方大会の準決勝」
などと言葉を交わしながら出された茶を啜るうち、だいぶん汗が引いているのに気が付いた。店内には冷房の低い唸り声と、控えめな音量に設定されたアナウンサの声と、時折響く金属バットの音だけが流れる。
「お勧めは何ですか?」
「うちは団子屋なんだけど、この時期はかき氷がよく出るかな」
「じゃあ、かき氷を。団子は、お持ち帰りできます?」
「もちろん」
「このお店、長いんですか?」
「うーん、江戸時代のちょっと前くらいから、だったかな」
その言葉に驚いて、氷を削る彼の背中に色々と尋ねると、この先の峠近くに住む鬼を旅の坊主が退治して、そこに建てられたのが今や観光名所となっている例の寺、退治された鬼の娘が始めたのがこの茶屋で、親鬼の切り落とされた左手を埋めたところに生えたのが店の前の柿の木だと伝えられているという。
「ま、鬼なんて作り話、ただの山賊だよね」
と笑う店主の声を聞きながらスマート・フォンで調べてみると、柿の寿命は百年程度らしく、話が本当なら少なくとも柿の木の方は化け物に違いなかった。
そんな夢を見た。
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