第七百八十二夜

 
 夕食の時刻を回っても戻らないお客様がいるとのことで、お戻りになられたら直ぐにでも気が付くように外に出て、掃き掃除のフリでもしてソウスを見るようにと女将さんにいわれて外に出た。
 今日は梅雨の晴れ間で風もなく、今更掃くべき落ち葉も無い。手持ち無沙汰に落ち葉を求め、箒と塵取とを手に玄関から大分遠くまで歩いてゆくと、上流の方から強い光がゆらゆらとぶれながら迫って来た。すぐに貸出自転車のLEDとわかり、件のお客様の戻ってきたのだと知れる。
 昼過ぎに釣り道具を抱えて自転車に乗って行ったお客様がいらしたのを思い出す。こんな時間まで戻らないとは、随分釣れたのか、或いはボウズだったのか。後者の場合に釣果を尋ねるのは気不味かろうと、
「暗い中、お怪我はありませんでしたか?」
と尋ねてみると、彼は宵闇の中というのを差し引いて尚真っ青な顔をして、それどころじゃないと掠れた声を上げ、
「蛍が出たんだ、蛍だよ」
と興奮した様子で言う。
 自治体の方針で、谷川の狭い平地を整えて設けられた水田を維持し、農薬の利用を絞って蜻蛉や蛍を増やして観光資源にしようと努力を始めたのが一昔前のこと。今はそれが実を結び始め、有り難いことに外国からの観光客も増えてきている。
「ご覧いただけましたか」
と声を弾ませる私に、しかし彼は、
「ああ、ああ。林の中から異様な数の蛍が現れてこっちに向かって飛んできたんだ」
と声を震わせる。
 日の暮れるまでほとんどボウズで川を上流へ遡り、日の暮れる頃に辿り着いた淵でようやく具合のいい釣り場を見つけたと言う。手頃な岩に腰を下ろし、十分か十五分かに一匹といったペースで一時間半ほどすると、いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていた。もう戻らねばと荷物を片付けたところ、さっと冷たく湿った風が吹いたかと思うと対岸の林から無数の蛍が飛び出した。その明りが闇に慣れた目には随分と明るく見え、その照らす淵の水面にはっきりと、長い髪を力なくたゆたわせて浮かぶ水死体を見たのだと、彼は泡を飛ばす。
「早く警察を」
と訴える彼にこちらで連絡をするから宿で休むように言って部屋まで送る。宿の廊下でも警察をと訴える彼の様子を見た番頭さんが、
「今年も蛍が出たか」
と声を掛けてきたので、
「念の為、通報だけしておきますか?」
と尋ねると、どうせいつものあれで、遺体など見付からないだろうからと首を振った。
 そんな夢を見た。

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