第七十八夜

 

強くはない酒を無理に呑み、終電でようやく帰宅した。これも仕事のうちとはいえ、心にも身体にも負担は大きい。自分がまだ若いと思えるうちに、他の仕事に回らなければ。

そんなことを考えながら、兎に角風呂にだけは入っておかなくてはと湯船に湯を張る。

湯を貯める間に、重い瞼をどうにか持ち上げながら歯を磨く。磨き終えて着替えを用意し、服を脱ぐ頃には膝頭まで湯が溜まっていたのでそこに坐り込むと、ちょうど半身浴の状態になる。

酒を呑んで長風呂に入るというのは、本当は余り身体によろしくないと聞く。アルコールの分解のために大量の水を消費しているところでさらに汗を掻くので、脱水症状を起こすらしい。

そんなことを思い出し、吐水口の湯を手で掬って飲む。なるほど、目を閉じてみればじわりと身体に水分が染み渡るようだ。が、これはきっと錯覚だろう。みぞおちの上まで湯が溜まったので、蛇口を捻って湯を止めると、狭い浴室はピタリと無音になった。

尻がずるりと滑って大きな音を立てたのに驚いて目を開けると、洗い場に赤銅色の肌をした、筋骨隆々たる青年が二人、黒いブーメラン・パンツを穿いただけの姿で筋肉を誇示するようなポーズを取り、底抜けに明るい笑みで白い歯を剥き出しながら立っている。一人は黒い直毛、もうひとりは金の縮れ毛を、揃ってポマードで固めオールバックにしている。
――ああ、酔いが回ってついにこんな幻覚を……。

湯気の籠もった浴室からの連想で、こんな夢か幻かを見ているのに相違あるまい。そう思って浴槽から腰を上げようとすると、
「いえいえご主人、我らは決して幻覚などではありませぬ。我らはご主人が朝昼晩と欠かさずに召し上がる、珈琲の精でございます。日頃のご愛飲に報いようと、お困りのご主人の元へ化けて出たのでございます」
と、舞台役者のように腹の底から出るよく張った大きな声で黒髪が言い、金髪がニコニコしながら
「以前もお目にかかったでしょう」
とこちらの顔を覗き込む。
――徒然草だったかな。

昔話に、大根にご利益があると信じて朝晩食する者が空き巣に遭った際、留守の家を大根の精が化けて出て守ったという話があった。それが頭の片隅に有って、こんな幻覚を見ているのに違いない。そんなことを思っていると、黒髪がこちらにグイと笑顔を寄せ、
「いえいえご主人様、我らは本当に珈琲の精でございます。お困りのことがあれば何でもお申し付け下され」
と言う。こちらも酔いが回っているのでつい、それなら、髪と身体を洗っている間に明日の朝の珈琲をコーヒー・メーカにセットしてしておいてくれと頼むと、
「それはお安い御用にございます」
と金髪が浴室の戸をすり抜けて出てゆく。
「他に御用は……?」
と黒髪が問うので、炊飯器に米を研いで、朝五時に炊き上がるようタイマを設定するように言うと、
「残念ながら我らは機械の類にはめっぽう弱いのでございます」
と頭を下げる。

では米だけ研いでおいてくれと言うと、黒髪は畏まって浴室を後にした。

浴室に一人になって我に返り、湯で顔の汗を流して湯船を出、髪を洗い始めると、シャリシャリと米を研ぐ音が聞こえてきた。

そんな夢を見た。

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