第七百六十六夜

 

 何やら食欲をそそる香辛料の香りとともに、ジュウジュウとフライパンか何かでものを炒める音が聞こえて目が覚めた。眩しさに薄目を開けて首を巡らせると、台所とも呼べないような廊下の一角、小さな流し台に一口のコンロで彼女がフライパンと菜箸と握っている。

 こちらの視線に気がついたのか、
「もう少しで出来るから」
と振り返らぬまま言う彼女に、何か手伝うことはあるかと尋ねると、特に無いからゆっくりしていてよい、食事後の洗い物だけやってくれたら嬉しいと言う。お言葉に甘えて彼女の背後をすり抜けてユニット・バスに入って用を足す。

 世間は大型連休だが、そここそ書き入れ時という仕事もある。今日はその中で久し振りに貰った休みだったが、混み合ったところへ出掛けるには貴重過ぎる一日だ。そんな私を気遣って彼女はお出掛けを我慢した上、わざわざ昼食を作りに来てくれるという話になっていた。そこで今まさにこの扉の向こうで料理中というわけだ。

 私といえば起床して顔を洗い、溜まった洗い物を近所のコイン・ランドリィへ持って行き、部屋に戻ってベランダに干したところで力尽き、そのまま二度寝してしまっていた。

 手を洗いながら違和感を覚える。この部屋はごく狭いワンルームながら、周辺の治安に配慮してか、各部屋に後付けのオートロック装置が付けられている。ゴミ出しなど、わざわざ鍵を持って出るほどのことでない場合のために特別な操作をしない限り、扉が閉まれば自動的に鍵が掛かる。

 ところが、彼女は現に今、狭い流し台で料理を作っている。四月に出会い、連休前に付き合い始めたばかりで鍵など渡していないのに、どうやって部屋へ入ってきたのだろう。気付かぬうちに合鍵でも、勝手に作っていたのだろうか。

 あまり深刻な雰囲気にするのも嫌で、扉を出てすぐ、まだ寝ぼけたままといった調子に声を作り、
「そういえば、鍵、閉まってなかった?」
と尋ねると、
「え?開いてたけど?っていうか、寝る前に開けておいてくれたんでしょう?」
と、彼女は屈託のない表情で大皿に炒め物を盛り、ソファ・ベッドの脇のテーブルへ運んで行った。

 そんな夢を見た。

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