第七百四十四夜

 

 夕食を終えて皿洗いをしていると、妹の部屋からドスンと重い音がしたかと思うと、何か硬いものの転げるような音が続いた。目を丸くした父が慌てて立ち上がり、しかし年頃の娘に遠慮をしてまず私に部屋を訪ねるように言う。

 慌ててエプロンで手を拭いながら妹の部屋へ赴くと扉越しに安否を尋ね、返事を待たずに開けるよと宣言して扉を開ける。そこには勉強机の前の床に妹と椅子とが倒れていた。肩越しに様子を伺っていた父が鎖骨を指で叩きながら呼びかけると彼女はすぐに気が付く。

 椅子から転げ落ちて右肩や腰を打ったようだが、頭にこぶができた様子はないと言うので居間のソファで横にさせてしばらく様子を見ることにする。

 腰を打った側の脚を若干引き摺るような様子の彼女には父が付き添って慎重に階段を下りて行く。その後姿を見送って、床に倒れた椅子を立ててみる。キャスタや脚が壊れたような様子はない。一体何があって転んだりしたのだろうかと首を捻るが、部屋を見回しても特に変わったものはないように見える。

 首を捻りながら階下に戻り皿洗いの続きをしていた父に交代を申し出ると、それよりも妹の様子を見てほしいと言う。そんなに遠慮をしなくてもよかろうとは思いながらも頷いて、二人分の紅茶を淹れてソファの妹の元へ持って行く。

 顔色の悪い彼女にカップを渡すと猫舌らしい慎重さで口を付け、小さく溜息を吐く。特に何も無かったようだが、一体何故椅子から転げ落ちたのか、強く打った場所がないにしても転げた原因を確かめるために医者に診てもらった方がいいのではないかと提案する。彼女は力なく首を振り、
「友達にね、小さな万華鏡のキィ・ホルダを貰ったの」
と事情を話し始める。

 学校の友人が、旅行の土産だと言って小さな万華鏡の付いたキィ・ホルダを持ってきて、仲の良い友人達数人に配ったのだという。その場ではその友人のものを見せてもらって綺麗だとか小学生以来で懐かしいとか言い合って、渡されたものは包装を破らぬまま持ち帰った。帰宅して夕食を終え、宿題に取り掛かろうかと鞄を開けて万華鏡を思い出した。鞄か筆箱か、何処に付けようかと考えながら包みを開けて何となく万華鏡を覗き込むと、
「キラキラの模様も何もなしに、血走った目がこっちを見ていたの」
と言ってカップを掌で包む。

 あんなものが部屋にあったのでは落ち着いて眠れないというので彼女の部屋に行って床を探すと、確かに小指くらいの大きさの万華鏡を見付けたが、いくら覗き込んでみても色とりどりの幾何学模様が見えるばかりだった。

 そんな夢を見た。

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