第七百四十一夜

 

 昼休みに外食から戻ってきた同僚が、小さな香水の瓶の入ったピンク色のラバーケースを指に引っ掛けて揺らしながらデスクに戻ってきた。スーツに身を包んだ巨体にまるで似合っていない。

 それを見た後輩の一人が、
「そんなキャラに合わないものを持って、どうかしたの?」
と陽気に笑いながら尋ねる。どういう神経を持ち合わせていたらそういう物言いが出来るものか分からないが、同僚達は皆既にそういう珍獣として諦めている。稀にではあるがこんな風に役立つこともあるからだろう。

 尋ねられた同僚は浮かぬ顔ながら、
「この前の日曜日、母に頼まれて弟に会ってきたんだけどさ」
と、小瓶を眺めながら話し始める。

 彼の弟は今年初めて担任を持った若手の小学校教師だそうだ。どこの学校でもそうなのかどうかは知らないが、低学年は手が掛かる、高学年は生意気で扱いが難しいとそんな理由で、昨年の春から新三年生の担任となったのだそうだ。ところが、
「ここのところ様子が可怪しい。女親には言い難いこともあるだろうから」
と母親に言われ、様子を見るべく週末に約束をして会ってきたのだと言う。

 そして喫茶店で落ち合って驚いた。子供の頃から兄弟揃って花より団子、匂いのするものといえばスポーツ用の各種スプレーくらいだった弟が、コーヒーの香りも打ち消すほどの強い香水の香りを纏っていた。

 ついに彼女でもできたのか、様子が可怪しいとはそういうことかと思いながら、もう少し常識的な付け方をした方がよいと嗜めた。が、少し話した様子の異常さから、直ぐにそれは全くの見当違いだったと分かったという。
「調べてみたら、自臭症とか、自己臭恐怖症とかいうらしいんだけど、自分が臭い、その臭いが人に迷惑を掛けている、だから自分は人に嫌われると、そう思い込んでしまうような病気みたいなんだよ」
と彼が溜め息を吐く。要するに弟さんのクラスが学級崩壊を起こし、「臭い」のなんのと悪口を言われ続けて精神を病んでしまった様子なのだという。
「ああ、子供ってそういうところあるよね。剥き出しで毒を吐くっていうか」
と、多少は声のトーンを落として珍獣が言う。お前がそれを言うのかと心の中で溜め息を吐くと、しかしまたいつもの甲高い声で、
「でも大丈夫だよ。子供に臭いって言われたんだろうけどさ、相手の弱点を見つけたらとことん突くんだよね」
「それのどこが大丈夫なの?」
と先輩一人が呆れ混じりに尋ねると彼はそちらを振り返り、
「子供ってほら、語彙力も経験も無いじゃないすか。だから容姿と運動と勉強?要するに『デブ・ブス』、『運痴』、『バカ』くらいしか悪口のレパートリがないんすよ」
と手をヒラヒラさせる。
「だから、『臭い』とか『汚い』って主観的で証拠もクソもないような悪口って、特に目立った欠点のない人を攻撃したいガキの最終手段なんすよね。つまり、弟君はまともな悪口の見付からない人ってことで、寧ろ自信持っていいんすよ」
と自信満々に断言し、彼は同僚に親指を立てて見せた。

 そんな夢を見た。

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