第七百十七夜

 

便所からデスクへ戻ろうとして、見るともなく同僚のデスク上を見て、犬の写真が飾られているのが目に入った。
「あれ?」
と思わず声が出る。彼女の家では幼い頃から一緒に育ったという老犬が飼われていると、ことあるごとに聞かされていたのだが、写真立てに飾られているのは同じ犬種のちいさな仔犬だ。

どうしましたとこちらを振り向いた彼女に、昔の写真でも引っ張り出してきたのかと尋ねると、
「先週末、親が保健所から新しい子を引き取ってきたんです」
と少々バツが悪そうに彼女がはにかむ。実は夏の盛りの頃に老犬を看取っていたのだという。彼女ももちろん死を悼み、両親ももう飼うつもりはないと公言していたそうだ。ところが特にお父様の塞ぎ込みようが甚だしく、散歩の時間になる度に寂しそうにする。そこでお母様が提案して保健所に連れ立って行き、老犬によく似た仔犬を見付けて引き取ってきたのだという。

縁というかなんというか、不思議なこともあるものだと我ながら気の利かぬ感想を述べると、
「そういえば、もう一つ不思議なことがあって」
と彼女が首を傾げる。

先代の老犬は、昔から夜中の八時半になると決まって一度ワンと吠えたという。いつも雨戸を閉じた掃き出し窓の手前に背筋を伸ばして座り、狭い庭に向かって歯切れよく鳴く。それが終わるとどこかに歩いて行って寝そべったりなんなりと特に決まった行動をするわけではないのだが、八時半のひと吠えだけは欠かさず、体の具合が悪くなっても最期まで続けたのだそうだ。
「それを教えたわけでもないのに、新しい子も同じ時間に同じ場所に座って、同じように吠えるんですけど、何かあるんでしょうかね」
と尋ねられるが、犬博士でもない身で答えられようはずもなく、
「不思議なこともあるものだね」
と気の利かぬ返事を繰り返した。

そんな夢を見た。

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