第七百十一夜
前日から続く秋雨を横目にデスクで弁当を突いていると、既に食事を終えた上司が湯呑を手に給湯室から戻ってきた。元々が早食いな上、メタボ改善のために奥様お手製の小さな弁当以外を禁じられているそうで、昼休憩が暇で仕方がないそうだ。
彼は手近な椅子を傍らに引き寄せて座り、
「昨日、コレに行ってきたんだけどさ」
と、左手で鉄砲の形を作ってクイクイと動かす。海釣りかと尋ねると、この時期でも禁漁になっていないところが北関東にあるのだそうで、夜中から車で山道を走ったのだそうだ。釣果は如何ほどと問うと、彼は、
「昨日はそれよりもさ」
とスマート・フォンの画面を差し出す。見れば林道の脇らしき林の手前に小さな鳥居と社に水か酒かが備えられている様子が映っている。
東の空が白んできた頃、もうすぐ釣りの許可されている区間に入る山奥の道を走っていると、上り車線の傍らにハザードを炊いた軽自動車が停まっていたという。ナンバー・プレートを見れば地元の車らしいが、この時間にこんなところで何をしているのだろう。運転席に人の姿はない。ハザードを炊いたままならそう遠くへも行っていなかろう、辺りに人の姿も見えず、となると車の死角で何か作業でもしているのか。
困ったときはお互い様と自分も車を路肩に寄せて停め、ダッシュボードから懐中電灯を取り出して車を降りると、やはり車の後輪近くに人が蹲っている。
「何かお困りですか?」
と声を掛けるとその人物が振り返り、
「いえ、このお社にお供えをしておりまして」
と人懐こい笑顔で返す。
袖すり合うも他生の縁、互いに簡単な自己紹介をしてその社について尋ねると、
「この山、GHQに取られる前はうちの山だったんですよ。正確には一度手放したことがあったんだそうですが……」
と言うので、差し障りがなければと詳しい話を聞いてみたそうだ。
曰く、明治の中頃に土地持ちだった彼の家が、流行り病やら何やらで古老がドタバタと亡くなって、若いご先祖が急に家督を継ぐことになった。そこへなんだか胡散臭い地元の議員だかが付け込んで、騙されたと分かったときにはもう遅い、財産をごっそり持っていかれてしまっていた。それでも家人や使用人を食わせねばならぬ。ご先祖様自らも荷を背負って行商をしてなんとか暮らしていたところ、ある冬の晩、雪に振り込められて夜道に迷ってしまったという。それでも必死に歩いていると、いつの間にか隣を腰くらいの肩高の狼が歩いている。飛び掛かられたらと思うと恐ろしかったが、このまま迷えばどうせ凍え死ぬ身と思えば、おれがくたばったら好きに食え、こんなところで死んでなるものかと却って勇気が湧いてきた。
「結局、ひいひい曾祖父さんだったかは、その狼のお陰で無事に家へ帰れたそうで。以来盛り返して山を買い戻し、命の恩人だからとこうしてその狼をお祀りしたんだとか」。
聞いた話を何故か自慢気に語り終わると、上司は満足そうに頷いて湯呑の茶を啜った。
そんな夢を見た。
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