第六百八十五夜

 

始業前、同僚達と上司の心配をしながら仕事の準備をしていると、噂をすれば影、珍しく汗まみれの上司が肩で息をしながらやってきた。普段ならもう三十分は早くやってきて、涼しい顔で部下を迎えるのが通例で、だから皆で何か良からぬことでもあったのではと心配をしたり、事故か何かで通行止めの路線でもありはしないかと検索をしたりしていたのだ。

誰が責めるわけでもない中、
「いやー、申し訳ない」
と額の汗をハンカチで拭いながら、電車の乗り換えの経路が複雑で半ば迷子になったと、遅刻仕掛けた理由を述べ、
「でも今日で具合はわかったから、明日からは平気」
と改善の予定までを報告する。
「車、どうかしたんですか?」
と誰かが声を上げる。そう、彼は運転が趣味故に自家用車での通勤で、だから毎朝ほとんど汗を掻かずに出勤してきていた。

ここのところガソリン代が上がってきているから交通費として支給される額を超えてしまったのではとか、環境関係で上からお達しでもあったのではと理由を探る声が上がる中、
「いや、実は昨日の夜、犬の散歩をしてたんだけどさ」
と、荷物を片付けながら彼は説明を始める。

早朝と夕方との一日二回だった犬の散歩が、連日の猛暑で早朝と深夜とに変更された。これまで早朝の担当は彼だったが、夕方を担当していた奥さんと娘さんが深夜に出掛けるのは好ましくなかろうということで当番を交替し、ここ一ヶ月ほどは毎晩深夜に出掛けていたのだそうだ。

そうして昨日の熱帯夜も普段通りのルートを犬に引かれながら歩いていると、前方に赤い回転灯が見えた。どうやら単独事故らしく、フロントの大きくひしゃげた車が電柱をめり込ませて停まっており、警官と思しき数人が辺りを忙しなく動き回っている。

邪魔にならぬよう犬を引っ張りながらその脇を通りすがるに、どうもまだ運転者は運転席に閉じ込められたままのようだ。深夜の住宅街は静かなもので、窓の開けられたパトロール・カーから無線のノイズまみれの声がよく響く。

なるべく車を見ないよう俯き気味に歩いていると、不意にそのノイズが、
「次はお前だ」
と言ったように聞こえたと言う。
「聞き間違いだとは思うんだけど、なんだか気味が悪いから、君子危うきに近寄らずと思ってね」
と苦笑いをして、彼は鞄から取り出した水筒のお茶をカップに注いで飲み干した。

そんな夢を見た。