第六百八十一夜

 

夕立の気配のしてきた空を眺めながら家の中へ早く支度をして出てくるように声を掛けると、両手に荷物を持った娘がバタバタとやってきて助手席に乗り込んだ。

後に続いて運転席に座ると、彼女は膝に乗せた小さなリュックサックへ一本の立派なキュウリを詰め込んでいる。シートベルトを締めるように促してエンジンを掛け、
「どうしたの、そのキュウリ」
と我ながら間の抜けた質問をすると、
「おばあちゃんに分けてもらったの」
と娘も我が子らしい答えを返す。

ポツポツと降り始めた雨にワイパを始動させて車を出す。行き先は娘の通うスイミング・スクールだ。小学校に通い始めてすぐに疫病騒ぎとなって水泳の授業が見送られ続けてきたが、今年になってようやく初めて行われることになった。そこで、まるで泳げないのでは格好が悪いからと、先月頃に娘の方からスイミングへ通いたいと言い出したのだ。もう学校での水泳の授業も始まって、ほんの一ヶ月では付け焼き刃さえ間に合わなかろうとは思ったが、自分から申し出たならと通わせることにして、今日で三度目だったか。
「そうじゃなくて、スイミングにどうしてキュウリを持っていくの?」
と質問を訂正すると、
「河童さんにあげるの」
と満面の笑みを浮かべる。何事かと尋ねると、プールに河童が住んでいて時折悪戯をするのだそうだ。

スイミング・スクールのあるジムは十年ほど前だろうか、川沿いに広い土地を確保して建てられたのだが、開業当初からプールで溺れる者が多かったのだそうだ。
「ああ、それで」。

言われてみればあの川は河童で有名だと、子供の頃に祖父母から聞いた覚えがある。山肌に多くの支流があって、雨が降ると急に水量が増えるために事故が多かったのだという。今や街に近い辺りはすっかりコンクリートで固められているが、今もこうして強まってきた雨を集めて増水しているだろう。

「うん、だからね、プールの脇に河童さんにお供え物をあげる台があるの」。
そういうわけで、その話を聞いた母が自分の畑のキュウリを娘に渡したものらしい。

激しい夕立の中ジムに着いて駐車場に車を停める。娘に車中で合羽を着せると、娘は軽い足取りでジムの入り口へ駆けて行った。

そんな夢を見た。