第六百五十一夜

 

しとしとと春雨の降る晩、久し振りに戻ってきた肌寒さを肴に熱燗の準備をしていると、インターフォンの古臭い電子音が鳴った。水場の磨りガラスから戸の前に立つシルエットを観るに、ここの一階に住む大家の爺さんらしい。

窓越しに返事をして火を止め、サンダルを突っ掛けて廊下に出る。何の用かと尋ねると、
お隣さんの様子がどうにも可怪しい、返事が無いようなら中で孤独死でもしていないか確認に入りたいのだが、一人では心細いので付き合ってほしいのだそうだ。

具体的に何が怪しいのかと重ねて問う。
「ここ二週間くらいか、下の郵便受けも、このドアの新聞受けもチラシで溢れるようになってずっとそのままなんですよ。いよいよ気になって月曜からもう三日、朝昼晩と訪ねてきても返事はないし、携帯電話は繋がらないし、これはいよいよかと思って」
と大家は青い顔をする。言われてみれば確かに、新聞受けには色とりどりのビラが差し込まれ、その隙間にまたビラが差し込まれて溢れている。思い返せば入口付近の郵便受けも似たような状態だったかもしれない。しかし、
「うーん、タイミングが悪いだけじゃないですか?ここ数日は確かに顔を合わせてませんけど、トイレとかの生活音は普通に聞こえてましたから」。
昨日だって、そろそろ寝ようかという頃合いに隣の戸の開閉音がして、夜晩くまで大変なものだと思ったのを覚えている。それを聞いた大家はかえって気味が悪いといって自分の肩を抱くが、白髪頭の爺さんがやって可愛い仕草ではない。

兎も角、一度入ってみなければ気持ちが悪いと譲らないので、渋々同行に同意したところ、鉄製の外階段を踏んで上る音がする。振り返ればちょうどお隣さんが帰宅したところらしく、四角く膨らんだ買い物袋を片手に、
「どうかしましたか?」
と不思議そうな顔をする。

郵便受けやらの様子から中で死んででもいるのじゃないかと心配をしたと説明する大家に、彼は苦笑いをしながら頭を下げて説明する。
「先日、取引先の方とお酒を飲んだ際に、家にいると何やかんやろ勧誘が来て煩わしいという話をしたのですが……」
郵便受けやドア・ポストをチラシの類で一杯にしておけば空き家か長期不在と思われてその手の人が寄ってこない、来ても明かりさえ点いていなければ居留守を使い易いのだと言われ、それは名案と早速実行してみたのだと。

それを聞いた大家はすっかり安心して顔色を取り戻し、こういうのは放火を誘発することもあるから気を付けろと消防に言われたことがあるので、程々にしてほしいとやんわり釘を刺し、軽い足取りで階下の自室に戻って行った。

そんな夢を見た。