第六百十七夜

 

夕飯の後の洗い物を終えて風呂を洗っていると、母が犬の散歩から帰ってきた。我が家では犬の散歩は交代制で、夕食後に散歩へ連れて行った者が一番風呂に入る決まりになっている。普段なら帰宅に間に合うつもりで取り掛かっていたのだが、ひとまず、
「ごめん、お風呂まだ途中だから、少し待って」
と玄関で犬の足を拭う母に声を掛ける。
「今日は早く戻ってきちゃったから気にしないで」
と返す母に、散歩の短くなった理由を尋ねる。
「それが、何だか変なことがあって、気味が悪くなっちゃって……」
と、母は犬を放して洗面台に立ち、手を洗いながら話し始める。

近所の長い坂を下った所に大きな公園がある。そこを折り返し地点に、辺りをぐるりと細長い長方形に回るのが犬のお気に入りの散歩コースだ。

今日も母は公園へ向かって坂道までの住宅街を縫う細い道を、いつものように顔見知りの犬の散歩やジョガーと挨拶を交わしながら歩いたという。

交差点に出て坂を下り始め、暫くすると不意に犬が足を止め、上に向かて牙を剥きながら低く呻り始めた。何が気に食わないのかと声を掛けながら母がリードを引いても、四本の脚でその場に張り付いてびくともしない。

機嫌が戻るまで抱えて歩こうかとリードを緩めると、辺りに
「ぶへへへへ」
と、品のない笑い声がする。驚いて辺りを見回しても、特に人の姿は見当たらない。道の脇の家からTVや何かの音声が漏れ聞こえてくるわけでもない。再び、
「ぶへへへへ」
と聞こえた笑い声に、滅多に吠えない犬が吠え掛かる。犬の視線の先を見ると、大きな柿の木が塀の内から歩道を覆うように枝を伸ばしていて、その中の枝の一本が風もないのに小さく揺れている。
「ぶへへへ……」
と三度笑い声がしたかと思うと、揺れる枝からブツリと一つ実が落ちて、歩道のレンガの上にべチャリと潰れる。

潰れた柿に犬が吠え続ける一方、奇妙な笑い声はそれきり止んだという。
「何だか気味が悪くって、坂の途中の横道に入って小回りで帰ってきちゃったの」
と風呂に入っていく母の顔は、洗面所の赤みの強い電灯の下でもいくらか青ざめているように見えた。

そんな夢を見た。