第六百十夜

 

マグカップに手を伸ばしながらモニタの時計に目をやるともうそろそろ昼休みという頃合いに、半休の連絡があったという上司が出勤してきた。振り向いて朝の挨拶を疑問形で投げかけると、しかし彼は土色の顔で生返事をしながら荷物をデスクに置き、直ぐに別室へ出てゆく。

普段朗らかな彼には珍しい態度だが、半休を取ったこともあり、まあ何か理由があるのだろうと皆で納得して、昼休みまでの残り時間を仕事に費やす。

昼休みを報せるチャイムが鳴ると同時に上司が紙コップの珈琲を片手に戻って来、デスクの椅子に腰を下ろして溜息を吐く。如何にも精神的に消耗しているようで、
「ご親族でもお亡くなりに?」
と、気の遣えないわけでもない若い子がうっかり尋ねてしまうほどだ。

それでも彼は持ち前の人当たりの良さで、
「そういうわけじゃないんだが……」
と無理に愛想笑いをし、食事の前にするような話でもないので平気な者だけ、食事が終わったら事情を話す、それまで少し休ませて欲しいと言って椅子の背を倒して目を瞑る。

三々五々食事を済ませ、多少は顔色を取り戻した上司の前に数人が集まると、彼はすっかり冷めた珈琲で舌を湿らせてから、
「マンションの駐車場の前でね、交通事故の目撃者になってしまったんだ」
と目を伏せる。通報をして警察に話を聞かれたために定時出社が出来なかったそうだ。駐車場から車道へ出ようとする車を制するようにアクセルを踏んだ直進車が運転席へ突っ込んで、死者こそ出なかったものの酷い事故だったという。話を聞いていた一人がドライブ・レコーダのデータの提出を要請されたりはしたのかと尋ねると、今日は車ではなく電車で出社するつもりだったと首を振る。毎日のように自家用車で出社してくる彼には珍しいと皆が口を揃えると、
「実は今朝、事故に遭う夢にうなされて目が覚めたんだ。同じように、駐車場の出口で運転席の脇に突っ込まれる夢を」
と彼は青い唇を震わせた後、同じく震える手でそれを覆った。

そんな夢を見た。