第五百八十三夜

 

梅雨の戻りというのだろうか、暫く続いた雨が漸く止んで一転真夏の日差しとなった日の晩、そろそろ明日の仕事に差し支えるからと日課のジョギングに出た。外に出ると、地面が溜め込んだ水分が昼に温められてなのか、もう夜も九時を回ったというのに酷く蒸し暑いが、それでも意を決して走り始める。

日課と言っても、走ることが好きなのではない。寧ろ持久力系の運動は好まぬ方であり、ただ今春の健康診断の結果から社に課せられた、あれこれの数値改善ノルマのために過ぎない。少々日々の食事量を減らし、天気の良い夜は毎晩走り、走らぬ日は酒を飲まない。我ながらよく続けているものだと思う。

家から五分ほど走ると、陸上用トラックに敷かれているような柔らかな舗装のされた堤防に出る。市の用意したジョギング・コースなのだろう。時間を問わずちらほらと、同じ用に走る姿や犬の散歩と出くわし、この三ヶ月ほどで見知った顔も出来た。

その堤防に上る階段は大体五百メートルおきくらいにあるのだが、私が家から向かうのは川の流れの大きく曲がる部分にある。堤に沿って赤地に白い鏃型の表示が並び、そのカーブの入り口には警官を描いた板看板が赤い誘導灯を左右に振って、急カーブへの注意を促している。

その脇を通って堤に上がるのだが、ふと見ると看板に描かれた凛々しい警官の顔に、何やらべっとりとペンキのようなものがぶちまけられているのに気が付いた。自然、
――お気の毒に
と思う。誰かの悪戯だろうが、一体何が楽しくてこんなことをするのか見当がつかない。丁度十分ほど走った先の堤防の下、住宅街と工場の境目に交番がある。余計なお世話かもしれないが行きがかりのことだから、一言報告だけしておこう。堤へ上がる階段を上り切ったところで、折角通報するのならスマート・フォンで写真でも撮っておくべきだったかと思い付くが、今更そのために階段を往復する気にもならず、そのまま柔らかな舗装路を駆けることにする。

特に何事もなく折り返し地点へ到着し、階段を降りて交番へ向かう。息が上がっていては余計な心配を掛けるかもと思い、暫く呼吸を整えてから交番のガラス引き戸に手を掛けると、駐在さんと目が合って互いに軽く会釈をしながら戸を引き開ける。
「どうされましたか」
の問に、
「大したことではないのですが」
と断って、件の看板への悪戯の報告をすると、彼は急に難しい顔をして、奥で休憩中だったらしい先輩に声を掛ける。たかがペンキの悪戯と思っていたが、考えてみれば警察の用意した看板だ。その汚損となると結構な重大事なのかもしれない。

奥から出てきた年配の警官が先程の駐在さんから何事か耳打ちされ、小刻みに何度も頷く。ややあって、
「やあ、よくご通報下さいました。看板の件は確かに承りました。これからも、何かあれば是非ご通報願います」
と愛想の良い笑みを浮かべる。

左様ならと交番を後にすると、顔見知りのご婦人が小型犬を連れて小走りにこちらへやってきて、どうかしたのかと尋ねてくる。どうやら交番へ入るところを見て心配してくれていたらしい。
再び看板の件を伝えると彼女も難しい顔をして、
「それは、今日のお話?」
と、犬と一緒に首を傾げてこちらを見上げる。頷くとリードを持っていない方の手を顔の前で大げさに振り、
「そんなはずないのよ。私はこの子の散歩で雨の日でも歩くけれど、あなたはジョギングだから知らなかったかもしれないわね。あの人形ね、二日くらい前に雨と風の強い日があったでしょう?あの日、スリップした車がぶつかって壊れちゃって、今は撤去されてるの」
とまくし立て、自分の手で肩を抱いて震えてみせた。

そんな夢を見た。