第五百七十二夜

 

バイト上がりの夕方六時頃、夏至が近付いて日が暮れるのも随分遅くなったものだと夕焼けを眺めながら帰宅しようと自転車に跨ったとき、スマート・フォンに着信があった。

ポケットから取り出して画面を見ると珍しく妹からで、平日のこんな時間に何の用かと思いつつ着信を取ると、直ぐに通話が切れる。

一体何を考えているのかと少々腹を立てつつ自転車を漕ぎ出そうとすると、今度はメッセージ・アプリのメッセージ受信を知らせる通知音が鳴る。今度もやはり妹からだ。曰く、
――ごめん、メッセージだと後回しにされると思ったから
だそうである。何か緊急の用件らしいと思っていると、直ぐに次のメッセージが送られてくる。
――トイレに閉じ込められた。たすけて。
そんなことを言われても、彼女の通う女子校に対して全くの部外者である兄にどうしろというのか。こうしてスマホで連絡ができるのなら、在校中の友達を探して助けてもらえばいいではないか。そもそも閉じ込められたとはどういうことか、イジメにでも遭っているのだろうか。

妹からの返信によると、まあ女性ばかりのコミュニティには常識的な程度に仲不仲や妬み嫉みはあるものの、具体的な嫌がらせなどはこれまで一度もないから安心しろ、それよりも、扉の開かない原因が全く分からなくて困っているという。

イジメでないというのなら、自力で抜け出せないものか。扉が開かなくても上の隙間から抜け出せはしないかと尋ねると、それも無理だという。昔は学校のトイレで個室の扉と言えば上も下も広く隙間が空いていたのだが、今のトイレはイジメやら盗撮やらの対策に上下の隙間が極端に狭く作られている。それでも隙間自体がなくならないのは、公共施設内で鍵の掛かる場所ということで、利用者の安全確認や施設の警備上の都合だときいたことがある。その天井近くの隙間から出られないのかと尋ねると、それはもう試したが、そこまで体を持ち上げて頭一つ分の隙間を通り抜けるのは彼女の運動神経では不可能だったそうだ。

ただ、その狭い隙間からスマホを差し出して動画を撮り、トイレ内の様子を確認してみると、特に何の異常もない。誰かが扉を抑えているわけでも、つっかえ棒が噛ませてあるわけでもない。勿論、個室の内側の錠を自分で掛けたままにしているなんて馬鹿馬鹿しいこともない。
――だから、友達に頼るわけにいかなかったんだよね
というが、私にその理屈は測りかねる。何の障害もなしに扉が開かないという異常事態に恐怖は感じないものだろうか。

インターネットで学校の電話番号を調べ、トイレの個室で妹が具合が悪くて動けないでいると連絡し、妹には具合が悪くて動けないフリをしておくようにと伝える。これなら――職員が扉を開けられさえすれば――友達にバレたくないという要求は満たせるだろう。
――もし幽霊とかの仕業ならどうにもならないし、それより友達にそんな連絡してアブナイ子だと思われる方が怖くない?
妹にそんな風に考えさせる人間関係の方が恐ろしかった。

そんな夢を見た。

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