第五十六夜

もう夜も半ばというのに相変わらず不快指数の高い空気の絡みつく中を、自転車で友人を先導しながら走る。

私を追いながら、アスファルトとコンクリートが日光を溜め込むのだ、密度の高い住宅やビルがエアコンを点け続けるから室外機の熱風が出るのだと、現代文のテキストで読んだようなことを言って彼は口を尖らせる。会津の田舎育ちを自称する彼にとって、自転車を二十分も走らせれば海というこの街の夏の蒸し暑さは相当に堪えるらしい。そうは言っても所詮はベッド・タウンだから、本当の都心に比べたらまだマシだと諭すが、それで今の不快指数が減るわけではないと返されて返答に詰まる。

すると、都合よく前方に二本の大木が見えてくる。
「ほら」
と木の間に置かれた青いプラスチック製のベンチを指さして提案する。
「あそこに自転車を駐めよう」。

道の左手は直ぐに竹藪になり、それと同時に気温と湿度とがぐっと下がったように感じられる。それは友人も同じようで、
「おお、ちょっと涼しい」
と喜ぶのが少々誇らしい。
「言った通りだろう」
「なぜお前が偉そうなんだ」
そんなことを言い合いながら自転車を駐め、ベンチの正面の鳥居ヘ向き直る。

八幡の藪知らず。かの水戸黄門が足を踏み入れて迷い、神仏の加護で危うく森を抜けたとか、将門公の墓所であるなど、そういう眉唾ものの噂のある小さな竹藪だ。由来はともかく今なお禁足地であり、嘘か真か、一度足を踏み入れれば二度と出ることは叶わないという。

鳥居の脇の看板を一通り読んだ友人が、
「じゃあ、本当に出られなくなるか、試してみよう」
と笑顔で提案する。竹藪の涼しげな風に気を良くして浮かれていろのだろう。それはいけない、どうしてもと言うのなら一人でやれ、私は先に帰って一夜漬けの続きをするからと断る。
「なんだ、理系のくせにそんな迷信を信じるのか。あちらの道を走る車のライトが透けて見えるほどの小さな竹藪が怖いか」
とからうので、つい腹を立てて言い返す。

私は迷信は迷信だと弁えている。だが、もう一つ、君の弁えていないことも、私は弁えている。この竹藪はそういうものとして、恐らく平安の頃から千年近くも語り継がれて、駅前の一等地だというのにこれまで大事に残され、綺麗に手入れもされているのだ。そういう積み重ねを今、高々二十年かそこら生きただけの一人の人間が浅知恵で蔑ろにするのは、人の営みの歴史をそっくりそのまま蔑ろにするのと同じことだ。先人の知恵の積み重ねを蔑ろにしたのでは科学などありえない。

そういうことを、二十歳かそこらの若造なりの汚い言葉で捲し立てたものだから、彼の方も素直に首肯しかねるのは当然で、
「それならこうしよう」
と藪を指差す。
「藪の向こうの道まではせいぜい十メートル、藪の敷地はほとんど長方形だから……」
と向かって右の方へ指を向け、
「進む距離は変わらないはずだ。あっちの角まで、俺は藪をまっすぐ横切って、向こうの道へ出たら右に曲がる。お前はここから右へ進んで、そこの角で左折して向こうの道へ向かう。藪を歩く分だけ俺のほうが面倒だけど、どっちが先に角に着くか、勝負しよう」。

聞きながら俯瞰した地図を思い浮かべる。私は敷地の外を右に進み、角を左折して次の角へ。彼は藪を突っ切って向こうの道へ出てから右折して角へ。
「いいだろう」
それで何がどう解決するとも思えないが、勝負というなら受けて立つ。

小学校ぶりに「よーい、どん」の掛け声を発して、二人は直角に走り出す。五秒と掛からず角を曲がり、駐輪場の自転車の間を駆け、ゴールへと辿り着く。彼はまだのようだ。息を整えながら左手、つまり彼の出てくるだろう方を見る。が、走ってくるものはいない。
 
やれやれ、藪の中でまっすぐ走れるわけもない、手探りにうろうろと歩き回っているのかと思い、鳥居から真っ直ぐ道へ出ればという辺りまで藪の脇を歩いても、彼の姿はまだ見えない。仕方がないのでガード・レールに腰を掛け、勝負に勝つとは愉快であるとか、それにしても遅い、藪から物音一つしないのは不可解だ、中で怪我をしていたらどうしようか、いや怪我ならば大声の一つも上げて助けを求めるだろうなどと考えているうちに、上がった息も収まり火照った脚も冷めたところで、急にガサガサと目の前の竹が揺れ、人が飛び出してくる。

彼は片手を上げて遅かったなと言う私に丸い目を向け、そんなに足が早かったのか、自転車でも使ったかと息の切れ間に声を無理に押し込みながら尋ねる。自転車など使うまでもなくもう優に数分は君を待っていた、その証拠に息も上がっていないと説明すると、
「そんな馬鹿な……」
自慢ではないが、いくらか竹を避けるのにスピードを落としてはいても、全力に近い力で何分も走る体力など無い、高校の頃に五十メートルは六秒を切ったけれど、
「いくら竹を避けて迂回したって、こんな十メートルかそこらに十秒も掛からない」
と、青い顔をこちらに向ける。

それを見て流石に気の毒になり、スポーツ・ドリンクでも奢ってやるから、早く部屋へ戻って一夜漬けの続きをしようと言って彼の背中を叩いた。

そんな夢を見た。

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