第五百四十五夜
夕刻、習い事から帰宅した娘が居間を通り掛かると、肩口で切りそろえた髪がやけにぼさぼさと乱れていた。
つい先日、春一番が吹いたという話は聞いたけれど、午前中に妻の買い物に車を出したときには穏やかに晴れていたのを思い出し、何かあったのかと尋ねる。
彼女は
「それがさぁ……」
と言いながら部屋に荷物を置き、洗面所で手洗いをしながら、
「駅前からカラスについて来られて、エントランスに入ろうとしたら飛び掛かってきて」
と、水音と距離とに負けぬよう声を張り上げる。
マンション一階の共用玄関前でカラスに襲われ、入り口のガラス戸の内側に入られぬように追い払いつつ中へ入るのに苦労をしたと言う。
爪や嘴で怪我などしていたら病気が怖い。怪我などしていないかと尋ねると、春にしては分厚い長袖の上着のお陰で無事だという。一先ず安心するとともに、
「済まんなぁ」
と詫びると、
「え?お父さんが謝ることなの?」
と娘は目を丸くする。
夕食の準備をする妻の邪魔にならぬよう珈琲を淹れながら、
「実はちょっと心当たりがあってね」
と説明する。
昨日、市から依頼があって同じ市内の住宅街で、電柱に掛けられたカラスの巣を撤去したばかりなのだ。通報が早かったのか季節が早かったのかそこにまだ卵は無く、巣も未完成のように見えた。折角の努力を無駄にして申し訳ないが、事故の元になる以上放っては置けない。選んだ場所が悪かったものと諦めてもらうしかない。
「きっと何処かから、作業をしていたのを見て顔を覚えられたんだろう。しかし、家族を狙うとはなぁ」。
そう言いながら娘にマグカップを渡すと、彼女は小さく悲鳴を上げる。その視線を追って振り返ると、一羽のカラスがベランダの手摺に止まり、窓ガラス越しにこちらを睨んでいた。
そんな夢を見た。
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