第五百十九夜

 

「こちらをご覧頂けますか?」
と警官が差し出したタブレットに表示されていたのは、ブルーシートに乗せられたどなたかのご遺体だった。

肩まで伸びる黒髪も、まだ真新しい上下のパンツ・スーツもずぶ濡れで、耳や手は水を吸ってか青白くふやけて膨らんでいる。靴は履いていないが、ストッキングのために肌色はわからない。顔の大部分は入念な化粧のためか血色がよく見え、特に唇には化粧を覚えたての子供のような、はしゃいだ赤色が乗せられている。

ミステリ好きの習性で、ついそんな観察をしてしまう。覚悟の上の入水自殺だろうかと思いながら、
「見覚えは?」
という警官の質問に対して
「いいえ」
と正直に返すと、彼は片方の眉を跳ね上げて、彼女のものと思われるハンドバッグにこの旅館の名前の入ったライタや油取り紙があった、宿泊客ではないのかと語気を荒らげる。

そんなことを言われても、知らないものは知らないのだから仕方がない。そう反論するより早く、警官が呼んでいるからと私を連れてきた仲居が口を開き、
「いえ、女将さんはその方をご存知ありませんの。本当に、ただの偶然なんですけれどね」
と私を庇ってくれる。
「それは」
どういうことかと警官が尋ねるより早く、彼女は自慢のよく回る舌と大げさな身振りでもって、昨日の奇妙な出来事を語り始める。

昨日の夕刻、女性は事前の連絡の通りに旅館へやってきた。勿論、普通なら女将以下、接客に当たる従業員が揃って出迎えるのだが、直前に庭の灯籠が地震も無いのに突然崩れ、急ぎ馴染みの石屋を呼んで対応を話し合っていたためにお出迎えが出来なかった。

用事を終え、他のお客の対応を済ませて非礼をお詫びに部屋を伺うと蛻の空、従業員の話によれば、折り悪く露天風呂へいらっしゃっていたという。ならばお食事の折にと思えば、急に宴会が入って暇が取れぬまま夜も更けて、
それでもお布団を敷くタイミングでと思っていたのだが、
「お食事を片付けて直ぐなんですけれど、そのお客様、夜風に当たってからもう一度お風呂を頂きたいからと仰って、お出掛けになったんです。それきりもどってらっしゃらなくて……」。

じっと彼女を睨みながら話を聞いていた警官は、
「事情はわかりましたので」
と納得し、ご遺体の身元を確かめるのに宿帳をというので、彼女と連れ立ってフロントへ向かうことにした。

そんな夢を見た。