第五百十三夜

 

仕事帰り、久し振りに酒をと誘ってきた同僚は、一杯目の生ビールをギュッと目を閉じて味わった後、開口一番、聞いて欲しい話があると言い、胸ポケットの財布から一枚の写真を取り出した。

曰く、疫病騒ぎの中、人混みを避けて写真趣味を満たそうとして、自転車に乗るようになったという。

運転免許を持っていないわけではないのだが、道すがら見つけた景色をちょっと一枚というような写真の撮り方が、自動車では難しい。特に狭く見通しの悪い山道で路肩に車を停めてそこを離れるというのが、なかなか危険で迷惑でもある。

そこで、目的地近くまで折り畳みの自転車を抱えて電車に乗り、目的地まで往復二、三時間くらい自転車を漕いで被写体を探す。

そうして撮ったのがこの写真だそうで、小さな滝から続く小川に谷の紅葉が散って、秋色のしがらみを作っている。

素人が撮ったにしてはいい写真じゃないかと褒めてやると、彼も満足そうに鼻を鳴らし、
「いいところだろう。春になったらどんな景色になるか、もう一度行ってみたいんだがなあ……」
と、練り梅を乗せたきゅうりを摘む。

別に取りに行けばいじゃないか、なにか不都合でもあるのかと尋ねると、彼は窄めた口にビールを流し込んでから語り始める。

この滝を撮った帰り道、なだらかな下り坂をのんびりと下っていると、小さなトンネルに辿り着いた。勿論上りの際にも通ったが、上りの姿には惹かれなかった。一方、下りで見る姿は、山からせり出した紅葉の枝がちょうどトンネルの名を刻む看板を支えるように張り出していて面白い。

これはと思って自転車を路肩に停め、トンネルに向かい、道路脇から構図の好い位置を探す。右手に紅葉の山の斜面、左手に暗い口を開けるトンネルと、その闇の向こうに小さく出口の明かりが見えるようカメラを構え、ファインダを覗く。

と、画面が一瞬暗くなった。トンネルの向こうに見えた出口がなくなっている。訝しむ内にまたふとまた明るくなり、シャッタを切る。また暗くなる。大型のトラックが通るものかとも思ったが走行音もせず、そもそもトンネルに車が入ったのならヘッド・ライトを灯すはずで、真っ暗になどならぬはず。

そんなことを考えているとまた直ぐに明るくなり、それと同時に背筋が冷えた。
「巨人か獣かしらないが、何だか馬鹿でかい生き物でもいて、そいつがトンネルの向こうをゆっくり歩くその脚で出口が遮られては退いて、また遮って……そんな景色がな、ふと頭を過ぎったんだ」。

そう言うと彼はジョッキを空け、店員を振り返ってお代わりを注文した。

そんな夢を見た。

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