第五百九夜

 

冷蔵庫から昨晩買っておいたサンドウィッチを取り出し、瞬間湯沸かし器でインスタント珈琲を淹れて簡単な食事を摂っていた。

部屋に積まれた段ボールを眺めながら、今日のうちに衣食に関するものくらいは荷解きを済ませてしまおうと決心する。

真新しいスポンジで食器を洗い終えると、まずは台所の調理器具や食器棚まわりの仕事に取り掛かる。仕事といっても所詮は一人暮らしだから大したことはない。電子レンジや冷蔵庫など重たいものは昨日のうちに引越し業者に運んでもらってある。

台所まわりに一通り目処が立ち、そろそろ昼食を準備しようか、それとももう一食、近所の量販店で出来合いの惣菜でも買ってこようかと悩み始めたところで、卓袱台の上の電話が鳴る。

見れば不動産屋の担当者からで、ちょっと聞きたいことがあるから直接会いたいと言う。何か書類に不備でもあったかと思い了承すると、車で迎えに来ると言うので、適当に時間を決めて電話を切った。

昨日の服……は不味いか。引き渡しの際に着て会ったばかりだ。スーツはスーツで、休日に着たくはない。服と書いた段ボールから適当に服を見繕って着替え、簡単に化粧をしていると電話が鳴る。

急いで部屋を出ると後部座席に載せられて、掌よりひとまわり小さな、チャック付きの四角いビニル袋を渡される。刑事ドラマで証拠品を入れるのに使われているのをよく見る。よく見れば、くるくると巻かれた細く茶色い一本の髪の毛が収められている。
「なんですか、これ?」
と尋ねると、心当りは無いかと尋ね返されるがさっぱり見当がつかない。

担当の女性も首を捻り、助手席に置いたタブレットを操作してこちらに示しながら、
「昨日引き渡しの終わった部屋の清掃に、今朝業者が入ったのですが……」
濡れた茶色い長髪が、風呂場に大量に落ちていたのだという。
「でも……」
と、雑に結んだ髪を顔の前に示し、
「この通り、私は黒髪ですし、そもそも引き渡しのときは何もなかったのを確認してますよね?大家さんと三人で。鍵も合鍵が作れないタイプなはずで、私の持っているものは確かに返却しました」
と言うと彼女は顔の前に両掌を上げて首と一緒に振り、
「いえ、貴女を疑っているのではなくて……」
と言って声を潜め、
「あの部屋に住んでいる間に似たようなこととか、金縛りとか、ありませんでした?」
と囁く。入居時に何の説明もなかったが、まさか何か曰く付きの物件だったのかと尋ね返すと、
「いえ、あるならあるで対処のしようがあるんです。多少のことはよくありますので。でも今回は、それがないから困ってるんです」
と、叱られた柴犬のように眉の端を下げて俯くのだった。

そんな夢を見た。

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