第四百九十夜

 

桶の中のキッチン・タイマが無粋な電子音で時限を報せるので、後ろ髪を引かれる思いで事実上貸し切りの大浴場に別れを告げ、さっと汗を流して脱衣場に戻り、浴衣に着替えた。

髪は部屋に戻って乾かそうとタオルを巻いただけで、旅館の用意してくれた大きな巾着袋に着替えその他を入れて廊下に出る。

暖簾を潜った直ぐ脇に仲居さんが控えていて、
「ご協力ありがとうございます」
と頭を下げるので、いえ此方こそご馳走様ですと会釈を返し、部屋の鍵に付けられたプラスチックの大きな札をくるくると回しながら自室へ向かう。

ご協力とは風呂のことで、海を見下ろす大浴場がこの宿の売りなのだが、疫病騒ぎが落ち着くまでは宿泊客一室ごとに三十分ずつの貸し切りで、間に五分ずつ消毒や換気が入ることになっていた。不便といえば不便だが、よほど長湯がしたいのでなければ、却って貸し切りのほうが楽しめるという人も少なくはなかろう。少なくとも自分はその一人で、だからこうして今晩の宿にここを選んだのだ。

すっかりほぐれた気のする首周りを軽く揉んで感触を確かめながら部屋に戻る途中、廊下にぽっかりと暗い出入り口を開けたトイレが目に入り、部屋に戻る前に用を足してしまおうかと思ってそちらへ向かう。

入り口の前に立つと瞬時に中の灯が点く。省エネルギーのための仕掛けなのだろう。その場でスリッパを脱いで、三足ずつ二行に綺麗に並べられた便所サンダルの左上のものに足を突っかけ中に入ると、カラコロと小気味良い音を立てながら数歩歩いて一番手前の個室へ入る。

用を足して水を流し、浴衣の裾を整えていると、流した水音に混ざって個室の外を奥へ進むサンダルの、木がタイルを踏む硬い音が聞こえる。ひょっとしたら、入れ替わりに大浴場へ向かう次の客だろうかなどと思いつつ個室を出、手を洗ってサンダルから元のスリッパに履き替える。出入り口を振り返ってしゃがみ込み、サンダルを元の通りに整えて廊下に戻り、再び部屋の鍵のキィ・ホルダをくるくると回しながら歩く。
部屋に着いて鍵を鍵穴に差し込んで扉を開け、スリッパを脱いで上がり框に足を掛けて気が付いた。

便所の出入り口には、私の脱いだ一足のスリッパしかなかった。サンダルも、揃えたときには入ったときと同じように、三足二行ににぴたりと並んだ。
――奥の個室へ向かった人は間違いなく、あの木のサンダルの足音をさせていたのに。

そんな夢を見た。