第四百六十八夜

 

大浴場から戻ると、火照った身体を冷やすべくビールと適当なツマミを内線で頼み、一人旅には余りに贅沢な部屋を見渡す。ワクチンの接種が進んだとはいえ時期でもない平日のこと、リモート・ワークを旅先でという流れに便乗して、随分とお得に旅をさせてもらっている。

大きな硝子の灰皿膝とお茶菓子の盛られた盆の置かれた、膝の高さの机をテレビの前に引っ張り出し、分厚い座布団の乗った座椅子を据え、鞄から私用のノート・パソコンとカメラを取り出し、酒を片手に作業のできるよう配置する。そうして整った四畳半ほどの空間を浴衣の中で腕組みをしながら見下ろすと、数分後に届けられる酒と肴をパソコンの右手に配した姿を想像すると、ダビデ像もかくやの完璧さだろうと、つい頬が緩む。

昼食にかこつけて外出した際に撮り貯めた写真を厳選し、多少の加工をしてアルバムに残す。そんな作業を、夕食も風呂も終えたこの気ままな時間にしようというのだから贅沢だ。

デジタル・カメラのデータをパソコンに取り込み始めたところで仲居さんが戸を叩き、瓶ビールとグラス、地元で農作物を荒らすイノシシやシカで作ったジャーキーやソーセージの盛り合わせを持ってきて、画面に映る写真を褒めたり、その風景のその裏手に畑があってと説明したり、話の上手い彼女に乗せられて、保存の効くものを幾らか土産に買うことにする。

丁寧に三指を付いて部屋を辞す彼女へ、
「暫く一人で作業をしたいから土産の方はビールのお代わりを頼んだときにでも持ってきてくれ」
と伝えてテレビを付け、スポーツ・ニュースを見るともなく聞くともなく流しながら、パソコンの画面の中の昼の記憶を辿り、加工しているといつの間にかビールもツマミも底を突いて、灯りを消した床の間へ入り、脇の金庫の上の電話に手を伸ばし、お代わりを頼む。
暗い部屋で受話器を置くと、何処かから低い音の聞こえるのに気が付く。何かと思い、四つん這いのまま耳を澄ますと、どうも壁の向こうから、低い音の声が絶え間なく響いているらしい。隣の客がテレビでも点けているのだろうと思い付き、しかしテレビでこんなに長々と低い呟きを流すだろうかと思い直して、
――お経だ
と思い至る。

酔った顔からさっと血の気が引き、慌てて床の間を飛び出し、サンダルを引っ掛けて廊下に出ると、丁度盆を持ってやってきた仲居と鉢合わせる。

お待たせして仕舞いましたと頭を下げる彼女にそうでは無いと言い、隣の部屋から気味の悪い声がする、隣は何か人死でもあった部屋ではないのかと問う声が思わず大きくなる。

目を丸くして驚く彼女はそれでも首を振り、長く務めさせてもらっているがそのような話は無いと言う。

部屋の空きは有るので、気になるようなら変えることもできると説明する彼女の背後で扉が開き、恰幅の良い禿頭の男が現れて、
「どうかなさいましたか?」
と温厚を絵に書いたような微笑みを浮かべながら尋ねてくる。

浴衣の袖から伸びたその手には、見事な房の付いた数珠が握られていた。

そんな夢を見た。